〈はじめに〉
今回三陸沿岸部を訪れるにあたり、明治29年と昭和8年に起きた大津波の痕跡を辿るという課題を設けて各地を回ってみた。前述の津波石以外は石碑の探索が主となったが自分が実際に見たのはごく一部でしかなく、この課題は今後も続けていこうと思っている。
明治三陸大津波とは明治29(1896)年6月15日に発生した大津波で、青森から宮城に至る広範囲に被害をもたらし、22000名が犠牲になったとされている。
昭和三陸大津波は昭和8(1933)年3月3日に発生、明治の三陸大津波である6月15日は旧暦の5月5日にあたることから当時「節句の厄日」「呪いの節句」などと言われたという。なお、昭和8年の津波では死者・行方不明者が青森、岩手、宮城三県で3000人余りとなっている。この二つの大津波は各地に甚大な被害をもたらしたが、その後この惨事を忘れないため各地に石碑が設置されることになった。自分が見た範囲ではあるがそれぞれの年代や地域で石碑に対する違いが見られ、その特徴を調べて取り上げてみた(※ただし明治と昭和の大津波両方を合わせた石碑もあるなど当てはまらないケースもあり)。
〈明治29年海嘯記念碑〉
この時は犠牲者の慰霊や供養が目的で建之されたものが多く、地域の人や寺社などが独自に設置したと思われる。明治29年6月23日付の「岩手公報」には「この惨事を風化させず子孫に伝えるため適切な紀念物を設けるべき」という記述があり、記念碑設立の動きに影響があったのかもしれない。 当時は津波(津浪)のことを海嘯(かいしょう)と表記しているが本来は河川の逆流現象などを指す言葉であり現在津波とは区別されている。また、表記が漢文形式で刻字されているものもあり、自分の学習レベルでは正確に訳すことが困難であった。さらに自然石に刻字されたものは彫りが浅く、風化もあってますます読み取ることが難しいケースもあった。
なお、現在「記念碑」というと喜ばしいことを記録するイメージがあるので犠牲者が出た惨事の石碑を「記念碑」というのは違和感を覚えるが、あの痛ましい出来事を忘れないという意味合いで「記念」としたのかもしれない。
〈昭和8年津波記念碑〉
昭和8年津波の記念碑は計画的に設置されており、その点が明治29年の場合と異なる。これは体験の風化を防ぎ、防災意識の啓蒙などを目的に当時の地震学者であった今村明恒博士(※1)のアドバイスによって実現された。建立には東京朝日新聞社に寄せられた義援金から2万6千2百30円(※当時の金額)が充てられ、三陸の被災地に200ヶ所余り設置されたという。しかしその中の何基かは東日本大震災の津波で破壊されたり流出して行方不明になったものも少なくない。
石材については石巻市稲井の牧山から産出した井内石(仙台石)↑を使用したものが多く、製作も石巻市の石材業者が行ったことが分かっている。当時を知る関係者の証言によるとあまりにも数が多いため人を雇わねばならない程大変だったことや刻字の文言はテンプレがあった、現地への運搬は船や車で行ったことなどが記録に残っている。石碑の表題は教訓が刻まれており、ある程度共通する部分はあるものの地域の状況によって細部がアレンジされていると思われる部分もあった。
宮古市重茂にある「此処より下に家を建てるな」は震災後多くの人に知られることになったが、昭和8年の記念碑は津波に対する後世への警告を我々に語りかけている。岩手県では朝日新聞による津波記念碑の他に復興の拠り所とした独自の石碑(※2)も設置しており、これには名知事と言われた当時の石黒英彦知事の「津波に負けず復興に向けて皆で力を合わせよう」という意図があったのではないかと思う。
〈石碑の設置場所について〉
昭和8年の津波記念碑は最大波高を記録した明治29年の津波到達地点に設置されることが多く、「これより下に~」の碑文はこのことが根拠になっていると思われる。当然ながら例外もあり、漁港の近くや人の目に触れやすい公共施設などに設置されたものも目にする。様々な工事の折に移設されたり東日本大震災を機に新しく整備された場所で保存されたものもあった。
設置されている津波記念碑に「此処より下に住居をするな」という類いの文字が刻まれたものがあると不動産価値が下がる、として悪質な業者が移動させたという話もあったが真偽の程は不明である。
〈余談〉
今回はデジカメで大量の写真を撮影することが予測されたので後から整理で混乱しないようノートに石碑名と場所を書いたものを撮影してから調べるようにした(工事現場の『着工前』写真みたいなノリ)。裏ページには刻字されている文面を書き写しておいた。まあ今のデジカメはGPS機能があるので場所は後から特定できるのだが…。↓
津波記念碑については多くの方が調査、研究されており、例によって自分の浅学では誤記や調べ間違いがあると思うのでそうした点はどなたかご教示頂ければ幸いです。
という訳で次回からは宮城県南部から順に津波記念碑を取り上げて行こうと思う。
鹿児島県生まれ。1891年帝国理科大物理学科入学、地震学講座を受講。明治29年の三陸地震発生後被災地を数回訪れ、後に「津波は海底の地殻変動が原因」とする説を出すが当時は殆ど注目されなかった。
昭和の大津波後も被災地を視察し、当時幹事を勤めていた震災予防評議会が岩手県の復興アドバイザーになったことから高台移転の徹底を提言。また、防災意識の啓蒙活動にも尽力し、「津波記念碑」の設立や小学校の防災教育の啓発教材として「稲むらの火」を国定教科書に収載するよう訴えた(後に実現)。
(※2)…石黒知事が詠んだ句「大津浪 くぐりてめげぬ雄心もて いさ追い進み参ゐ上らまし」を刻んだ石碑が岩手県沿岸部に残っている。
〈引用資料〉
・石に刻まれた明治29年・昭和8年の三陸沖地震津波・津波記念碑の石材とその分布に関する1考察
齋藤 平:皇學館大学平成18年度特別研究成果報告書
・津波の恐怖 ─三陸津波伝承録─
山下文男:東北大学出版会