震災遺構となった石巻市立大川小学校に行く時は北上川沿いの道を通ることが多いが、右岸の道路(県道30号線・河北桃生線)を走っていると追波(おっぱ)川との合流地点に大きな水門がある。「何か古そうな水門だなぁ…」と思いながらいつも通りすぎていたが、今回は時間があったので車を停めて観察してみた。
↑場所はこちら。中央が追波川で上側が河口方面。
↑調べてみるとこれは福地水門という現役の水門で、上流側から撮影したところ。アーチ上部分は本来県道30号線として共用されていたようだが、水門と平行する形で平成8年に賀茂之橋が竣工したため現在は歩行者や自転車等しか通行できない。
バス停には福地閘門と表記されており、竣工後は「福地閘門」となっていたようだが現在国交相の文書などには福地水門と表記されているので以降は福地水門で統一しておく。なお、閘門とは水位の異なる運河などに船舶を航行させたり水量を調節するゲートでパナマ運河やスエズ運河が有名なところ。現在は追波川を航行する船舶もいないようなので「水門」扱いになったのであろうか。
〈福地水門概略〉
福地水門は北上川河口から8,6kmの位置にあり、北上川の改修とそれに伴う運河(追波川)の掘削時に設けられた。工事は当時の内務省によって行われ、河北町史によると1930(昭和5)年3月に竣工している。中央のメインゲートは幅が7,9m高さ7,8mの2段式ローラーゲート、両側のサイドゲートが幅4,55m高さ4,1mのラジアルゲート(※注1)となっている。当時としては珍しいコンクリート製閘門で、内務省土木部門による大プロジェクトだったらしい。落成記念式典には紫藤正実村長や地元関係者らが集い、その近代的な福地閘門の完成を祝ったという。こうした経緯もあり、2004年には土木学会から土木遺産に選奨されている。
↑通路部分の柱には文字の書かれたタイルが埋め込まれており、消えかかった部分にライトを当てながら何とか読み取ることができた。正面には「北上川水系 追波川」とあり、他は「建設省北上川下流工事々務所終点」「昭和四十年建設省告示第九百??」「宮城県指定区間終了」となっていた。福地水門は現在国交省東北整備局北上川下流工事事務所(←長い!)が管理しているようだ。
〈北上川と舟運〉
↑このモノクロ写真は完成直後の昭和初期に撮影されたものと思われる。上流から下ってきた小型船が中央ゲートを通過しようとしている1コマ。以前河北町の人から「昔は石巻市(※旧市内)に行く時は船に乗って出かけていた」と聞いたが自分には位置関係などが分からず今ひとつピンと来なかった。しかし今回調べていると「石巻に行くには釜谷(※大川小学校の遺構がある辺り)からここまでポンポン船で北上川を遡り、この水門をくぐって運河に入った」という証言があった。河口から小型汽船で福地水門をくぐり追波川経由で旧北上川へ抜けていたのだろう。車が今ほど普及しておらず、道路も未整備だった頃は川舟による移動や運搬がメインだったことは想像に難くない。
〈福地水門と水面清掃船〉
福地水門の下流側には水面清掃船「きたかみ」が係留されている。水面清掃船とは読んで字の如く水面に漂流するゴミを回収する作業船で、所属は前述の北上川下流工事事務所となる。先代の「きたかみ」は東日本大震災による津波で被災、廃船となり2013(平成25)年9月に京浜河川事務所が所有していた「つるみ」を譲渡されて「きたかみ」に移管された経緯がある。東日本大震災で発生した巨大津波は北上川河口から49km上流まで逆流し、堤防の越流や決壊、水門等様々な施設を破壊した。福地水門が当時どのような被害状況だったのか今回は分からなかったが撤去や廃止に至らなかったので大きなダメージは間逃れたのかもしれない。
↑津波に巻き込まれ廃船となった「きたかみ」
※今回も前回の津波石のようにひとつのことを調べていると興味の対象が次々出てきて深掘りする羽目になったが、そうしたことを紐解いていくのが郷土史研究の醍醐味なんだろうかとも思う。普段何気なくスルーしていたものにも目を向ければ様々なドラマが隠されていたりするが、今回の三陸行は「見て、調べて、考える」という「大人の修学旅行」的なことをやっていたような気がする。
なお、今回取り上げた水門やその構造物等について自分は守備範囲外のため「にわか知識」による誤記や間違い等があると思うので至らない点のご指摘や御教示を頂ければ幸いです。
(※注1…ラジアルゲート)
水門の形状のひとつ。表面が円弧状でその曲線の中心を軸として回転し、開閉する形状。下図で扇状に描かれているのがラジアルゲート。
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日刊建設新聞 2023/10/11 宮城版
日本ダム協会 ダム事典