今日は台風の影響で天候が全く読めず、当初は浪江町まで行くつもりだったが様子を見ながら南下していくことにした。まずは山元町にある震災遺構の中浜小学校へ行ってみることにした。



 今日はあいにくの天気の上に開館してすぐということもあって自分の貸し切りに近い状態だった(※しばらくしてあと2名も参加)。このためガイドさんもかなり詳しく説明してもらえたりこちらから疑問点を尋ねることができたのはラッキーだった。中浜小学校は二階の天井付近まで津波が到達しており、児童や教員、避難してきた住民らは屋上にある物置に避難して翌朝自衛隊のヘリに救出された。中浜小学校は浸水のおそれがあるため本来は内陸部の中学校に避難することになっていたが、最後の情報では「10分後に第一波が沿岸部に到達」と聞いて校長先生はとても間に合わないと決断、屋上の物置に避難誘導したという(隣の山下第二小は車でピストン輸送するなどして内陸まで避難)。




 あと数メートル津波が高かったら中浜小学校も大川小学校のようになっていたかもしれない。この震災を「想定外」で片付けてはいけないが、明暗を分けたのはわずかな違い(運や偶然)の差ではないかと思わずにはいられなかった。


 外に出てグランドから校舎を眺めていると、隅の方に石碑があることに気付いた。その外観から三陸大津波の石碑ではないかと思い近づいてみるとやはり「昭和八年三月三日 大震災記念」「地震があったら津波の用心」と刻印されていた。裏には明治29年と昭和8年の地震と津波が発生した時刻、被害の状況などが記されており、山元町は明治と昭和の三陸大津波では人的被害がほぼなかったことが分かる。先ほどのガイドさんも「山元町は明治と昭和、チリ地震津波ではほぼ犠牲者が出ておらず、東日本大震災の犠牲者数は慶長津波以来の被害なんです」と言われていたのが印象的だった。

 この後山元町の民俗資料館や道の駅などに立ち寄ったが時間はまだあるし天気も悪化するようには見えなかったので相馬市の松川浦辺りまで行くことにした。

 時刻は午後1時半くらいになっていたが、「浜の駅」でお昼を済ませてお土産などを調達した。ちなみに写真はご飯の上にめかぶやイクラ、マグロやイカなどの切り身が乗った「漁師飯」というメニュー。そのまま食べてもいいが、別に用意されていた貝出汁や鰹出汁をかけて豪快に食べるのが漁師風か?



 「浜の駅」から少し戻ったところに「相馬市伝承鎮魂祈念館」があったので見学し、すぐ前にある海岸でしばらくぼんやりして過ごした。福島と言えば原発被害がクローズアップされるが、津波の被害も宮城県のそれと何ら変わりはないことを再考させられる。今日は台風の影響で海水浴をする人もおらず、巨大津波程ではないにしろ海の恐ろしさの片鱗を垣間見たような気がした(自分は瀬戸内育ちなので尚更)。
 いつもならインターから高速を使って一気に仙台に戻るところだが、帰りは敢えて海岸寄りの県道を通ってレンタカーを返却した。広島を出発して仙台から大槌町へ、そこからUターンして相馬市まで行ってみたが福島方面が浪江町まで行けなかったのが残念ではある。初日から台風に振り回された今回の行程だったが、明日は新幹線の運休は発表されていないので何とかなりそうである。長いようであっという間の盆休みだったなぁ…。😅