今朝も朝8時頃大船渡のホテルをチェックアウト、夕方までに仙台の営業所へレンタカーを返却すれば良いので三陸道を使わず国道を南下する。この時間にチェックアウトすると途中の施設に寄ろうとしてもオープン前のことが多いためこの日も陸前高田市や気仙沼は何処にも寄らす、南三陸町まで一気に走ることになった。


 歌津の商店街「ハマーレ歌津」の海側には神社があり、この神社は津波の被害を受けていない。一方、震災前は右手(山が凹になっている部分)に歌津大橋があったが津波により橋桁が流出してその後も再建されなかった(現在は山側に迂回路が建設されている)。

 橋脚は撤去されたが気仙沼方面の橋台は残っていた。リブログの記事でも取り上げたが、神社は津波の被害を受けていない所がかなり見受けられ、しかも測ったようにギリギリで浸水を免れたケースも少なくなかったという。また、当日神社に避難して助かった人の証言もあることから土地勘のない場所で津波のおそれがある時は神社を目印にして避難するという選択肢も考えておいた方が良いのではないだろうか。

  



 志津川ではオクトパスくんグッズなどを購入し、防災対策庁舎などで犠牲者のご冥福をお祈りした。上の写真はさんさん商店街の橋から内陸部を撮影したものだが、右奥に見えるオレンジ色っぽい建物の位置にはかつて老人ホーム「慈恵園」があり、津波は施設の1階天井付近まで浸水したという。職員らは中腹に見える志津川高校(当時)に入所者を避難させようとしたが間に合わず、多くの犠牲者を出してしまった。慈恵園は海からかなり離れているにもかかわらず津波があそこまで到達したことになり、建物で海が見えなかった震災前ならあり得ない状況だったであろう。





 今回は往路で大川小学校に行ってないので帰りに立ち寄ることにした。今日は祭日ということもあって駐車場はパッと見で6割くらい埋まっていた。伝承館を見学してグランドから校舎を眺めていると語り部さんと見学者が戻ってきた所だった。語り部さんはドキュメンタリー番組などで見覚えのある方だったが、聞こえてきた会話には「生還した教員」がなぜきちんとあの時のことを証言をしなかったのか、それがとても悔しいようだった。



 この日最後に訪れたのは震災遺構として保存された門脇小学校である。昨年訪れた時はタイミングが悪く休館日だったので今回が初の見学となった。当初は解体の意見も出されたがこうして保存活用してくれたことは意義深いことだと思う。



 入館してまず目に付くのは大破した消防団のポンプ車と役所の公用車に使われていた軽自動車だった。震災直後はあちこちでこうした車を目にしたが、今は殆ど目にすることがなくなった。瓦礫を巻き込んだ津波はコンクリートミキサーに放り込まれたに等しく、車が紙クズのようにくしゃくしゃになるのも当然である。これに人間が巻き込まれたらどうなるか想像して欲しい。



 門脇小学校は津波だけでなく大規模な火災によって炎上し、海に面した教室はほぼ焼き尽くされている。紙や木材は言うまでもなく、金属やガラスさえも溶かす程の高温になっていたことを伺わせる。門脇小学校は地震と津波、火災という被害を受けたにもかかわらず校内にいた生徒や教員などに人的な被害はなかったと言う。同じ石巻市立でありながら大川小学校と門脇小学校の明暗を分けたものは何だったのか?と思わずにはいられない。




 体育館内には仮設住宅が移築されており、内部を見学することができる。自分は以前山元町と女川で仮設住宅に暮らす被災者のお宅にお邪魔したことがあったが、夏暑く冬は寒い仮設住宅は「避難所の雑魚寝よりマシ」みたいなことを言われていた。避難所の雑魚寝は問題外だが、仮設住宅の規格や支給される家電類の制限は見直すべきではないかと強く思う。
 帰りに売店で門脇小学校のガイド本(写真集)を購入し、外部を見学して仙台へ引き上げた。

 2日の午後に仙台入りして沿岸部を見て回ったがあっという間に4日が過ぎてしまった。明日は終日移動なので特筆することもなく、明後日からまたいつもの仕事に戻ると思うと三陸ロスにもなりそうだが何やかんやしていたらすぐ盆休みになるのではないかと思う。


↑若林区荒浜の慰霊観音