昨年8月、現地行動3日目朝に登米市を出発して45号線を北上、気仙沼バイパス入口で一般道に曲がり市内方面に車を走らせた。内の脇地区に入ると真新しいグランド(サッカーやラグビー場?)が目に入ったので休憩も兼ねて駐車場に車を止めた。自販機で缶コーヒーを買って周囲を見回しているととなりに三階建ての建物があることに気付いたので近くへ行くとそれは震災遺構として保存されている建物であった。これまで気仙沼市内は何度も訪れていたが、どういうわけかこの建物には気付かなかった。
この建物は元々「阿部長商店」の創業者、阿部泰兒(あべ たいじ)氏の自宅であり、震災遺構として現在もその外観を見学することができるようだ。本来はもう少し離れた場所にあったが、敷地が再開発の区域に入っていたため移動させたとのこと。
↑阿部泰兒氏(1933~2019)は現在の南三陸町歌津出身で、家業の水産物販売を手伝いながら行商を始めた。1960年のチリ地震津波で全てを失うが翌年には鮮魚仲買業を興し、「阿部長商店」として再出発。なお、社名は父親の阿部長四郎氏から一文字もらったのが由来とのこと。
泰兒氏は水産業だけでなく観光業も手掛け、地域の発展に尽力した。ホテル観洋やお魚いちば、リアスシャークミュージアムなども阿部長グループである。現地で水産加工品などを購入するとその多くが阿部長商店のものであるのでご存知の方も多いと思う。↓
そうした中、泰兒氏は2006年に自宅の外側へ屋上に上がることができる螺旋階段の取り付け工事を発注した。家族らは高額な工事費用や防犯上の不安から難色を示したが泰兒氏は頑として自分の考えを譲らなかった。周囲に高い建物が少なく、避難場所も遠いため自宅の屋上を地域の避難場所にしようと考えたからである。完成後は地域住民らと3回ほど避難訓練を行っていたこともあり地震発生後は30人あまりが屋上に避難、3日あまり孤立したが自宅の毛布などを持ち出して凌ぎ、孤立した人たちはその後ヘリで救出された。
泰兒氏はチリ地震津波の惨状を経験していたため津波の恐ろしさを忘れることができなかったのだろう。この体験は今後発生すると言われた宮城県沖地震に強い危機感を持ち続けていたと思われる。食品工場やシャークミュージアムなどは被災したがホテル観洋や気仙沼プラザホテルなどは高台にあったため津波の被害は受けていない。建設場所の選定については宿泊者を守れるように、と泰兒氏の考えがあったのではないかと思う。また、自宅や志津川にある高野会館の保存を決意したことも震災の記憶を風化させないとの思いからそうさせたと察することもできる。命を救った階段というと大船渡市越喜来(おきらい)小学校の非常階段が思い出されるが、こちらも津波に対し危機感を抱いた地元議員の後押しによって設置されたと聞いた。
泰兒氏は生前「苦難の中で何を学ぶか、それが人生を大きく左右するんだよ」と話しているが、先の見えない物事に対し過去の経験や教訓を生かすのは容易ではない面もある。だがその体験を糧にして道筋を開拓した泰兒氏の信念には敬服するばかりである。自分も現地の方々から様々な震災の体験を聞かせて頂く機会が少なくないが、これを生かすことができてこそわざわざ遠路足を運ぶ意味があるのだと思うようになった。
震災から13年が経過し、3月を過ぎるとメディアも震災のことを報じなくなるが「千年に一度」と言われた大災害を今の我々はあまりにも軽んじていないだろうか。各地で毎年のように災害が発生し、社会も目まぐるしく変化していく中で東日本大震災が過去の出来事に追いやられるのはやむを得ないのかもしれないが、リアルタイムであの震災を見聞した者としては「自分のこと」として捉え続けていこうと考えている。最後に改めて震災で犠牲となった方々のご冥福をお祈りいたします。
〈参考資料〉
・阿部長商店ホームページ
・南三陸日記 三浦英之著:朝日新聞出版