現地での最終日、お世話になった民宿のご主人と奥様にお礼を述べて気仙沼を後にした。雨がそぼ降る三陸道を仙台方面に向かい、歌津インターで国道45号線に戻る。45号線はアップダウンの多い道で、その途中には津波の遡上を警告する標識が立てられている(↓下写真)。反対側は「ここから過去の津波浸水区間」となっている。
歌津の商店街(ハマーレ歌津)でちょっとした買い物をした後に志津川の防災対策庁舎があった場所(祈念公園)へ車を止めた。改めて近くで見ると骨組みのC型チャンネル材は全て山側にひん曲がり、津波の破壊力に恐怖を感じずにはいられない。あの日、職員や住民らはどのような思いでこの庁舎の入り口や外階段を通ったのだろうか。そして巨大な津波が町に押し寄せるが職員の中には自分の妻が自宅と共に流れに引き込まれて行くのを目の当たりにしてもどうすることもできず、ただ号泣するしかなかったという。これを生き地獄と言わずして何と言えばよいのだろうか…。
しかし屋上に避難した人たちも津波から逃れることはできなかった。女性職員らには通信アンテナの柱を抱き抱えるよう指示し、その外側を男性職員らがガードするようにスクラムを組んだ。だが津波の第1波が引くとそこにいた人たちの姿は無く、頑丈な外階段の手すりに掴まっていた人やアンテナをよじ登った人などだけが助かった。屋上に残る通信アンテナの柱を見ていると「第1波が到達するまでここには避難していた人が間違いなく存在したのだ」という思いがしてあの日の惨事は決して過去の出来事ではないと改めて痛感する。
庁舎付近は祈念公園として整備されたので震災前のものは残っていないと思っていたがブロ友さんの記事には旧志津川駅があると書かれていたので庁舎の辺りから付近を眺めてみた。公園の駐車場辺りに一段盛り上がった場所が見えたので路盤の築堤かと見当を付けて近づくと確かに旧志津川駅のプラットホームなどであった。駅名表示の看板は後から立てられたものと思われたがホームや地下道は当時のままだった。志津川高校に通っていた生徒たちもこの地下道をくぐっていたのだろう。まだ付近が整備されていなかった頃はこの地下道をくぐってホームに出たことがあったが今は周囲に何もないため以前の位置関係がすっかり分からなくなってしまった。路盤跡を歩いてみたら赤茶けたバラスが散見され、わずかながらここに列車が走っていたことを伝えているようだった。
志津川からは国道398号経由で大川小学校を訪れた。ここは未だに多くの人が県外からも足を運び、その惨事を忘れまいとする人たちがいることに救われた思いがする。今回も付帯する伝承館を見学したが、入るとすぐに巨大なジオラマが展示されており、震災前の大川地区を再現していた。今は大川小学校の遺構の他は更地や農地になっているが、震災前は診療所や郵便局、雑貨店などひとつの町を形成していたことが分かる。公共施設だけでなく個人宅も一軒一軒再現されており、見学していた人が「ああ、ごごは〇〇さん家があっだよねェ」などと震災前の町を思い出しているようだった。
この後ウチのお母んから「知り合いに配るので何か乾物を調達せよ」とミッションがあり、急遽雄勝町に向かった。雄勝町は巨大な防潮堤に囲まれて海がすっかり見えなくなっていたのには驚いたが、それでも殺風景なコンクリート壁に様々な絵が描かれていたのは新たな試みと言える。
いつも雄勝町で乾物を購入している海産物店で色々見繕い、市内に戻って今まで購入した物などを箱詰めの後クロネコヤマトの営業所から発送した。当初はレンタカーを返却する途中どこかへ寄るつもりだったがブロ友さんの近く(※最寄りの営業所が自宅近くだった)に行きながらスルーしてしまうのも何だったので最後の顔見せをしてきた。話はいくらでもあるのだが6時までにレンタカーを返却してホテルにチェックインしなければならなかったので名残惜しいが来年の再会を約束してお別れした。明日新幹線の運休がなければいよいよ東北ともお別れである。本当にあっという間の5日間だった。