登米市のルートインを8時前に出発し、45号線に向けて東へ進む。当初は志津川へ降りる予定だったがミスコースで気仙沼の手前である陸前小泉に出てしまった。南三陸町へは帰りに寄ることにしてバイパスの手前から気仙沼市内に入る。新しく整備された総合グランドが目についたので自販機でペットボトル飲料を補充しようとPに車を停めると一軒の建物が目に付いた(↓下写真)。
 二階付近まで破壊された痕が見えたので震災遺構と思い近づくと説明板があった。それによるとこれは阿部長商店やホテル観洋などの創業者、阿部泰兒氏(1933~2019)の自宅であったという。阿部氏は過去にチリ地震津波などを体験しており、地区に高台がないため自宅を避難場所も兼ねて震災の数年前に建て替えたとのこと。周辺の人も避難できるように螺旋階段も設置して避難訓練も数回実施していたようだ。阿部氏の防災意識は効を奏し、震災当日は30人あまりが屋上に避難して助かっている。
 阿部氏は津波の被害を受けないよう志津川や気仙沼などのホテル観洋は全て高台に建設し、津波の被害を受けることはなかった。(↓下写真の高台に建つのは気仙沼のホテル観洋)

  


 気仙沼と大島は架橋により地続きになったが、自分はフェリー時代(2012~13年頃?)に一度訪れただけなので久しぶりに大島へ行ってみることにした。その時に忘れられなかったのが田中浜に打ち上げられた小型船である。震災当日湾内の火災で全焼し、浜へ漂着したと思われるそれは忘れられない遺構だった。あれから10年余り過ぎているので撤去されたかもしれない、と思いつつ田中浜へ行くと自分の記憶のまま浜に残されていた。(↓下写真)

 まるでサイパンやペリリュー島などに残された戦争遺跡のようなこの小型船はあちこちから草が生え、このまま朽ちていくのかもしれないがモノ言わぬ震災の証言者としてこのまま座し続けていくのだろう。

↑大島の桟橋には最後まで運航されていた「ドリーム大島」が係留されていた。大島汽船が震災でフェリーを失った時、無償貸与を申し出たのが広島県江田島市で、余剰になっていたフェリー「ドリーム能美」であったがこの時の支援が縁で気仙沼市と江田島市は友好関係を結ぶことになった。




 気仙沼を後にして次は陸前高田市へ向かう。同市の入り口で最初に目にするのは震災遺構である旧気仙中の校舎であろう。内部の見学は事前申込みが必要なので今回は外から眺めるにとどめたが、表示によると津波は校舎の屋上を越えており、生徒や教員らが校内を脱出して高台に避難したため惨事には至らなかった。
 気仙中から対岸を見ると「奇跡の1本松」や旧ユースホステルの遺構が見える。



↑市内に残る米沢商会さんのビルも訪れてみた。当ビルは震災前の町のランドマークとして、また津波の遡上高を示す指標として米沢さんが保存を決意したと聞いた。周囲はビルの二階付近までかさ上げされているので高さの実感が当時とは異なるが屋上を越えた津波の恐ろしさは言うまでもないだろう(※米沢さんは当日ビルにとどまっていたため屋上に避難したが津波はそれすら越え、排気塔によじ登って九死に一生を得た)。

 この後箱根山にある気仙大工伝承館を見学し、大船渡市の盛駅で三陸鉄道グッズを購入して市内のホテルにチェックインした。明日はいよいよ最大進出限度の大槌町まで行く予定。


↑気仙沼のグランドに併設された休憩室。右後方が阿部氏の被災した旧宅。