これまでに何度か書いているが自分は東日本大震災が発生する以前に三陸を訪れたことはなく、それまでの町の様子は全く見ていない。初めて訪れたのが2011年8月だったので被災地の多くが更地のようになったり大規模半壊した建物が残る風景しか知らない。自分には震災前の風景を想像することは難しいが、現地の書店などで震災前の風景が掲載されている書籍があれば購入するようにしている。三陸は自分の故郷ではないが震災前の風景を知ることで色々プラスになるものがあるのではないかと思っているからだ。


 地元の方々が撮影していた多くの写真は津波で失われてしまったが、それでも消失を逃れたものがこうした書籍で出版されていたりする。また地元の新聞社などにはデジタルアーカイブのような資料があるかも知れない。



↑上のイラストは「あの大船渡 あの陸前高田」に掲載されていたもので、震災前の図書館や体育館の様子が描かれている。下は筆者が2012年8月に撮影したもので当時はまだ被災した車両や瓦礫が残ったままだった。陸前高田市の体育館は震災当日避難場所として多くの市民が身を寄せていたが、津波は天井付近まで到達し助かったのは僅か数名という大惨事になった。市民会館の壁にはここで犠牲になった母親に宛てた子供たちのメッセージが書かれていたのが忘れられない。



↑陸前高田市気仙町付近の震災前と2013年頃撮影した写真。いつもながら震災前はここに多くの建物があり、人々の日常があったことが信じられないほど激変している。この近くにあった公民館も津波に襲われ、避難していた人のほとんどが犠牲になった。跡地には慰霊碑があったと思う。


↑こちらも震災前の陸前高田市。同市の七夕祭りは地元の人に欠かせない行事であったが勇壮な山車も津波で流出したという。詳しい場所が分からないので何とも言えないが、この付近はかさ上げ工事で盛り土の下になっているのかも知れない。



↑悲劇の象徴とも言える南三陸町の防災対策庁舎は役場の隣にあり、本来屋上から海は見えなかったという(震災前は多数の民家や志津川病院、ショッピングセンター「サンポート」などが建ち並んでいた)。商業施設や居住区は移転し、周囲はかさ上げされたため庁舎はすり鉢の底に取り残されたようになってしまった。震災前の市街地も追悼公園のように整備され、以前の面影は残っていないがこの庁舎と後方に現存する「高野会館」が震災前のランドマークの役割を果たしている。高野会館のオーナーは津波被害を伝える遺構だけでなく震災前の町の記憶を残す役目もあって解体せず保存していると聞いた。

 自分が震災以降毎年5月と8月に三陸を訪れているのは定点観測的な面もあり、その度に町が激変していることに驚くことも多い。住み慣れた場所からかつての面影が消滅したり離れざるを得なくなった人たちの心中は察するに余りあるが、災害多発国の日本には避けて通れないことではある。東日本大震災は改めて「平凡な日常」の大切さを考えさせられた事例でもあった。