先日死去された英国のエリザベス女王の国葬が執り行われ、多くの人たちがその死を悼み別れを惜しんだ。自分は英国王室とは何の繋がりもないが、激動の一生を全うされたエリザベス女王には哀悼の意を表したい。その英国王室やエリザベス女王について深い知識を持ち合わせている訳ではないが、タイトルにもあるサファリラリーとの関係を書いてみようと思う。
戦前から英国統治領だったケニアは王立東アフリカ自動車協会が設立されており、地元の人や英国から移住してきた人たちが車を使った道楽を楽しんでいた。同協会で競技委員会チェアマンを務めていたエリック・セシルは酒飲み話の中で従兄弟のニール・ビンセントから「自分の車でアフリカを走り、一番早く戻って来た者が勝者になるようなイベントを企画したらどうか」と持ちかけられた。セシルはこの話を元に東アフリカを巡る自動車イベント構想を固め、その実現に向けて動き出した。しかし当時の王立自動車協会はモータースポーツに興味がなく、総帥をどう説得するかという問題があった。一計を案じたセシルはこの時本国で控えていたエリザベス女王の戴冠(即位)式に目をつけ、これを祝うという口実で申請したところ承認を得られ開催に踏み切ることができた。開催は戴冠式に合わせて1953年6月とし、地元新聞社とシェル石油もスポンサーに付くことが決まった。このラリーは「コロネーション(戴冠式)サファリ」としてスタート、ケニア、ウガンダ、タンザニアを回る壮大なものだった(※その後政情不安などでケニア単独開催となる)。参加車両はファミリーツーリングサルーンのみで改造も不可、クラス分けも排気量ではなく車両価格によって4クラスに分けられた。ペナルティは最も安価なAクラスが少なくなるよう設定されており、総合優勝も設けられていなかった。こうして開催された「コロネーションサファリ」は回を重ねるうちに口コミでヨーロッパにも伝わり、アフリカに乗り込んでくるドライバーも次第に増えていった。57年からはローカルルールから国際格式に統一、60年からは「イーストアフリカン・サファリ」と名称を変える。
↑最も安価なAクラスのフォルクスワーゲン
60年代になるとヨーロッパから様々なメーカーが車両やドライバーを送り込んできたが日本では日産と日野がケニア大使館の勧めに応じてエントリーを開始した。日産のサファリ参加はこの競技を車両の耐久性を調べる壮大なテストと考えており、この経験を市販車にフィードバックする目論見があった。また、その後サファリの活動は宣伝効果があることも分かり、広告にサファリの成績が引用されるようになった。さらに石原裕次郎主演の映画「栄光への5000キロ」がサファリと日産の知名度を日本に浸透させる結果となった。こうした背景もあり、日本のメーカーはWRCのマニュファクチャラータイトル(年間総合優勝)よりサファリの1勝の方が価値があると見る所があったが完走すら困難なサバイバルラリーを制することはそれだけのステイタスがあった。日本人プライベーターはモンテカルロやRAC、ツール・ド・コルスにエントリーする者もいたがサファリにエントリーする者が圧倒的に多く、ラリー=サファリという認識もあったのだろう。
その後ヨーロッパのワークスチームが必勝を期して多数エントリーしたがサファリ優勝の壁は厚く、地元スペシャリストでないと勝てない状況が続いたが72年のハンヌ・ミッコラ(フォードRS1600)がついに欧州ドライバー初優勝を勝ち取った。とはいえジョギンダ・シンやシェカー・メッタといった地元スペシャリストがサファリで常勝だったことに変わりはなく、ワークスチームもサファリではこうした地元ドライバーとスポット契約を結び参戦させるケースが多かった。
レギュレーションがグループBに移行するとヨーロッパのイベントではランチアやプジョー、フォード、アウディなどのモンスターマシンが暴れ回り、日本のメーカーはその開発に一歩も二歩も出遅れることになるが耐久性がモノを言うサファリに限っては後輪駆動のセリカ・ツインカムターボ(↑上写真)が84年から86年まで三連覇を達成、日産の240RSも善戦した。
87年からはレギュレーションが市販車に近いグループAとなったがやはりサファリのエントリーは今まで通りの盛り上がりを見せ、ワークス、プライベーターが制覇を目指してサファリに挑み続けた。しかしワークスチームはその参戦形態を次第にエスカレートさせ、物量作戦で勝利を引き寄せようとする結果となった。百名単位の要員をケニアに派遣したり現地で採用し、開催数ヶ月前から大規模な現地テストを開始、ラリー本番では前路偵察や無線中継のためのセスナやメカニック要員を乗せたヘリ(ドクターヘリのラリー版)を飛ばすなど「コロネーションサファリ」の牧歌的なラリーとは別物となってしまった。また、サファリの参加車両は「サファリスペシャル」と言われるサファリに特化したラリーカーをこのイベントのためだけに製作しなくてはならなかった(モンテカルロやツール・ド・コルスの軽量バージョンとサファリスペシャルは200kg前後の重量差があった)。こうして莫大な予算をつぎ込んで得た1勝も他のヨーロッパラリーのポイントと変わらず、「労多くして益少なし」な状況にワークスチームは次第に不満を募らせ、サファリは違約金を支払ってもスキップしたいと考えるチームもいたようだ。
主催者側も走行距離を短くしたりサービスポイントを移動式ではなく固定とするなどラリーのコンパクト化を図ったがスポンサーの撤退などにより2002年以降WRCのシリーズ戦に組み込まれることはなかった(※20211年に再びシリーズ戦に復帰)。サファリラリーはどちらかというとパリダカのようなアドベンチャーラリー的な面が強く、良くも悪くもヨーロッパのスプリントラリーとは異なる存在だったサファリラリーをヨーロッパのラリーのフォーマットに合わせること自体無理があったのではないだろうか?道なき道を進み、激変する自然に翻弄され、トラブルを解決しながら目指した先にたどり着いたゴールはサファリラリーにしかない別格の魅力があり、今もサファリラリーに「取り憑かれ」愛して止まないドライバーがいるのもごもっともだと思う。
今回はエリザベス女王を口実に開催されたサファリラリーの歴史をざっと書き連ねてみたが何かの参考になれば幸いです。
〈参考文献〉
悠久のサファリ:三栄書房
DATSUN510&240Z:桂木洋二著・グランプリ出版
※文中敬称略