今回も大船渡市を出発して最初に訪れたのは越喜来(おきらい)地区だった。因みに最寄りの駅名は「三陸駅」である。越喜来地区は難読な地名もあるが「児童の命を救った非常階段」や高齢者を助けようとして行方不明になった北里大学の瀬尾佳苗さんのことなどがあって忘れられない場所である。現在の越喜来地区は小学校が統廃合で無くなったり居住禁止区域が指定されるなど以前の町並みとは程遠い状態である。
 それでも三陸駅は駅員さんが詰めており、三陸鉄道グッズを購入がてら地域の現状などを伺った。先ほど「駅員さんが詰めている」と書いたが、委託と思われるおばちゃんによるとここもいずれ無人駅になるという。三陸鉄道は北線と南線が繋がったものの苦しい経営状態に変わりはないようだ。

 越喜来湾を見下ろす場所には地域の人たちが整備した慰霊の場所がある。自治体が整備した施設のように立派なものではないが、追悼の場所がある意義は大きいと思う。自分も海に向かって合掌した。


 越喜来から峠を越え、平地となった国道を走っていると見慣れた三陸鉄道のトラス橋が見えてくる。このトラス橋と日本製鉄のプラントが見えると釜石市内は近い。震災当日この付近の国道は渋滞しており、並んでいた車は次々津波に呑まれたという。ヤフー時代にお付き合いのあったブロ友さんもここで渋滞に巻き込まれたが、どす黒い波にいち早く気付き車を乗り捨てたため難を逃れた。しかし息子さんはこの近くにいながら津波に巻き込まれて亡くなった。


 駅前は新しいホテルや商業施設ができるなど震災の惨状を留める痕跡は殆ど残っていない。自分が11年前に宿泊したビジネスホテルの周辺も訪れてみたがそちらもすっかり様変わりしていた。当時は飲食店の類いが見当たらず、たまたま近くにいたケータリングカー(キッチンカー)でラーメンを食べたなぁ…とあの時のことが色々よみがえってきた。


 山ひとつ隔てた地区が鵜住居(うのすまい)地区である。釜石市は児童らが率先して避難した防災教育がしばしば取り上げられたが、その一方で鵜住居地区は多くの住民が犠牲になった。原因のひとつに一次避難場所ではなかった防災センターに住民が避難したことが挙げられている。防災センターは議論の末解体され、周辺が大規模に整備されたため以前の町並みを想像することは難しい。防災センター跡地にはあの惨状を伝え、防災について考える施設がオープンした。自分も見学したが、残念ながらこちらを見学する人は僅か数人だった。



 さらに峠を越えればそこはもう大槌町である。入り口にある商業施設「シーサイドタウン マスト」内の書店で震災関連書籍を購入し、町を見下ろす高台に登ってみた。3年前に比べると建物が増えた印象で駅前にはちょっとした飲食店街ができていた。居住区域の規制については分からないが、まだまだ空き地の方が多いように見える。


 大槌町役場があった場所も更地になっており、小ぢんまりした追悼場所と案内板がなければ分からない状態になっていた。加藤町長や職員らは役場前に対策本部を設置し、対応を協議していたところを津波に襲われ、その殆どが犠牲となった。このことはその後の復興に大きな影響を与える結果となった。11年前に訪れた時は焼け焦げた車両などがこの付近に集められていたと思う。



 帰りに再び陸前高田市に立ち寄り、先日見ていなかった旧道の駅(タピック45)の周囲を見ておいた。建物の後ろには倒れた照明灯も残っており、頑丈なアンカーボルトが根元から引き千切られている様子は改めて津波の威力を見せつけられる思いだった。防潮堤の向こうからは海水浴を楽しむ人たちの声が聞こえ、少しずつ震災前の町に戻りつつあるのかな…と感じた。


 ※明日の夕方までに仙台へレンタカーを返却しなければならず、現地での行動もいよいよ終盤である。往路で寄れなかった場所を改めてピックアップしようと思う。