仙台市内のホテルを出発し、途中で石巻市内をうろちょろした後河北町のブロ友さんと3年振りの再会となった。残念なことに親身なお付き合いをさせていただいていたブロ友さんの父君が今年急逝し、再会がかなわなかったのが残念だった。お土産を手渡し、仏壇で合掌した後皆さんとしばしば談笑して過ごす。話は尽きなかったが初盆ということであちらも大変だろうから来年の再会を約束してお別れした(お土産もたくさん頂きました)。
お宅を辞した後、次に向かったのは大川小学校である。大川小学校は11年前に初めて訪れた場所であり、個人的にこの惨事を調べていたこともあって毎回追悼に訪れることは欠かさない。今日は平日ながら多くの人が訪れ、中には学校の活動で訪れていると思われる生徒たちが語り部さんの説明を聞いていた。
今回久しぶりに訪れると敷地内に震災伝承館が完成していたので見学してみた(入館無料、館内撮影可)。こちらも震災前の地区のジオラマや写真、この惨事を伝える写真や当時の遺物などが展示されているが、中でも胸が痛むのは写真のランドセルである。持ち主は当時4年生だった鈴木巴那(はな)さんの遺品で、巴那さんは今も行方不明のままである。
学校が見下ろせる裏山から学校を俯瞰してみた。津波は自分が撮影で立っている場所のすぐ下まで到達し、校舎はほぼ津波に呑まれた。「たられば」を言ったところで犠牲者は帰ってこないが、裏山や雄勝峠方面に避難していれば…と悔やまれてならない。震災当夜のニュースでは「石巻市立大川小学校に避難した200名あまりが孤立し…」と報じられていたが、当時は大川小学校がどのような状態なのか知る由もなく、自分は「救助隊が到着するまで何とか頑張って欲しい」と願っていたのだが…。 移転した慰霊碑に合掌して大川小学校を後にした。
地震発生直後に職員はここに集まり、遠藤未希さんと三浦毅課長補佐は防災無線で町民に避難を呼びかけていた。しかし気象庁から「津波の最大高さは10m」との発表を知り、遠藤健治副町長は「みんな上がってけろ!」と叫んだため殆どの職員が屋上に向かった。それでも遠藤未希さんが放送を続けようとするのを三浦課長補佐か佐藤智課長補佐が遮り「上がっぺ!未希ちゃん、上がっぺ!」と屋上に上がらせた。しかし津波はその屋上をも乗り越え、フェンスにつかまっていた人たちも第1波が引くと残っていたのは町長を含め僅か10人という惨事となった(流された中の1人は漂流物に掴まって後に生還)。
震災から11年が過ぎ、かつての志津川を想像させることが困難なほど町は激変している。町はかさ上げされ、居住区などは高台や内陸部に移転した。西日本に住んでいると東日本大震災を知る機会も減り、自分の周囲で話題にする人は殆どいなくなった。実際に自分もコロナ自粛で3年も離れていると気持ちが離れていることは否めない。こうしたことが果たしていつまで続けられるのか自分にも分からないが、できる限り三陸に足を運ぶつもりでいる。明日は気仙沼~陸前高田を経て大船渡まで進む予定。