昭和20年8月6日、B-29から広島市上空に投下された一発の原子爆弾は町を一瞬で破壊し、多くの人が犠牲となった。上流川町(現在の中区胡町)にあった中国新聞社は爆心地から900mしか離れていなかったため社屋は全焼、社員も114人が亡くなった。本社は機能を失ったため新聞の発行は大阪や福岡などの朝日、毎日新聞が代行印刷を行い8月9日より新聞発行は再開するが被災者や地元の人たちが知りたい情報はなかった。


 ↑全焼した中国新聞社の社屋:8月7日、報道班員だった岸田貢宜(きしだみつぎ)氏撮影


 軍からの要請により市民らが必要としている情報を伝えるべく中国新聞の社員らは「口伝隊(くでんたい)」を編成、集めた情報を元に町の各地で人々に伝えていった。この漫画は今回中国新聞に掲載されたもので、当日難を逃れて帰社、口伝隊として奔走した記者の八島ナツヱさん(当時27)の様子を一部再現している。





 社員らは親族の安否が不明な者もいる中、少しでも情報を必要としている人たちのために「伝える」ことを止めなかった。自分はこの「口伝隊」について今まで全く知らなかったが、この活動は東日本大震災の時に石巻日日新聞が被害を受けて新聞が発行できないなら、と手書きの新聞を避難所に掲載したことを想起せずにはいられなかった。ジャーナリストとは窮地に陥っても伝えることを「諦める」のではなく「できることをやる」という考えなのかも知れない。

※戦後77年が過ぎ、原爆を体験した人たちの多くが鬼籍となり、生存している人もその体験を聞くことは困難になりつつある。口伝隊を務めた八島ナツヱさんも入市被爆の影響でしばらくすると放射線による後遺症に苦しんだと思われる(2006年87歳で死去)。
 ちなみにウチのお母んは爆心地から2.5キロ離れた自宅で被爆したとのことだが、当時は5歳だったので閃光を見た後気付いたら倒壊した自宅の下敷きになったことや夜に市内の空が真っ赤になっていたことくらいしか記憶にないとのことだった。祖母は市内の親戚を探しに救護所などを回っていたと聞いたが当時のことはあまり話したがらないような感じだったので自分もそのくらいしか原爆の話は聞いていない。当時の体験談は書籍や映像などで見聞しているが、自分が直接話を伺う機会はおそらく無いのではないかと思われる。過去の惨状が忘れ去られる時、再び同じ過ちを繰り返すのが世の常である。記憶にとどめる、次に伝える、という意味を今一度考えて欲しいものである。

↓「声の新聞 力の限り」はこちらに全編掲載されていますので興味のある方はご覧ください。

https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/194235