2018年7月6日、この日も雨が降り続いていたが、夕方になると次第に雨足が強くなってきた。仕事も早めに切り上げ、帰宅すると自治体からの避難準備メールが着信し、市内の危険な地区や開設された避難所が列記されていた。ニュースを見ながらいつも通り夕食を済ませたが、ネットで雨雲レーダーに注視しているとかなり強い雨雲が次々に流れて来ており、積算降水量も赤グラフを越える勢いとなっていった。


 自宅前の坂道を流れる雨水はいつの間にか茶色い泥水になっていた。外に出ると大きな石や木の枝などが流れていたのでどこかが崩れたのではないかと思われた。自宅の地域は避難準備や指示などはなかったがお母んと弟には「いつでも避難できるようにしておけ」と伝えて自分も作業服に着替えた。幸い雨は8時過ぎ頃から弱まり、レーダーを見てもピークは過ぎたようで自宅も裏庭に泥水が多少流れてきたくらいですんだ。


 翌日は冠水した国道を迂回しながら何とか会社にたどり着いたが会社周辺も泥水や土砂が溜まり、惨憺たる有り様だった。とはいえ機械が無事だったのは不幸中の幸いと言えた(※実際は別の場所に置いてあった重機が何台か流されていたが…)。とりあえず停電の恐れがある島嶼部に発電機を下ろして帰ろうとしたら国道の法面が決壊したためトラックは広い場所に乗り捨てて徒歩で帰社した。



 その後仕事で様々な場所へ重機や資材の搬入をこなしていったが普段見慣れていた地域は激変し、元の風景が思い出せない地区も少なくなかった。写真の市原地区は田んぼが広がる長閑な郊外の集落だったが大規模な土石流に襲われて地域は孤立、消防団の男性も犠牲となった。


 市内の主な道路やJRの線路も寸断され、陸の孤島となった市内も全国から自衛隊や警察、消防の車両などが次々に集結する様子を見た時は本当に泣きたくなった。     

 発災直後はスーパーやコンビニなどから商品が消え、ガソリンスタンドも売り尽くして休業する有り様だったが、1週間ほどするとタンクローリーやトラックを載せたフェリーが次々と桟橋や港に着岸し海路から物資の陸揚げが行われてモノ不足も次第に解消されていった。ライフラインについて電気は比較的早く復旧したが、水道は地区によっては1ヶ月以上断水した所もあったと思う。自宅の地域は断水以外何もなかったし、井戸水が使えたため雑用水には困らなかったがやはり飲料水はきちんと備蓄しておくべきだったと痛感(保存食の備蓄はあった)。また、友人とのLINEやSNSなどは情報収集や拡散に有効な手段だと改めて感じさせた。「〇〇のお店にモノが入った」「××の道が通れるようになった」などと言った情報は役に立つことが多かったと思うし自分も知っている情報はなるべく伝えるようにしていた。



 西日本豪雨は広い範囲に甚大な被害をもたらしたが、中でも広島県は犠牲者の数が突出していた。土石流災害については地質や地形などに影響される所が大きいと思うが、その後のアンケートなどで「避難するタイミングが難しい」「自分の地域は大丈夫」というスキがあったことも判明している。耳にタコな言葉ではあるが、「自分だけは大丈夫」とか「今までなかったから」という考え方は改めて欲しいと思う。