先日自分がブログというものを始めたのはいつだったのか?と思い立ち、遡ってみると2011年6月末だったようであれからもうすぐ11年が経つことになる。本来はヤフーブログでスタートしたのだが、ヤフーが2019年にブログを閉鎖することになったのでこちらのアメブロに引っ越した。そのヤフーブログも一時期個人情報漏れの疑いが指摘され、パスワードやアカウントを変更したため開設当初の記事を閲覧、移転することができなくなってしまった。このため2013年5月の記事が現存する最古のものになっているが、初期の記事は今見たらおそらく「筆が走った」稚拙な内容ではないかと思う。また、その頃はガラケーからの投稿だったので写真や文字数などに制約があり、メールに毛が生えた程度だった気がする。

 そもそも自分がブログを始めたきっかけはヤフー時代からの人はご存知と思うが、東日本大震災だった。連日メディアは被災地の惨状を伝えていたが、東北とは無縁の自分に個人レベルの状況を知ることは限度があった。そこで目を付けたのがブログだったが、特にヤフーはその頃「被災地からの声」みたいな特集を組んで現地の人たちのリアルな投稿を紹介していたのも後押しとなった。皆さんからの生々しい記事はテレビのニュースなどの「最大公約数」的なものではなく、ピンポイントで身の丈な内容が多かった。また、メディアは次第に「美談」や「いい話」を伝えるようになったが、それもキレイごとで現実は違う、と指摘する人もいた。本来三陸とは全く縁のない自分だったが、他の記事にコメントしたり自分の記事を閲覧した人から共感を頂くなどのやり取りをするうちにそれなりの関係を構築することもできたと思う。やはり被災地の現実は実際に足を運ばないと分からないのではないかと考えるようになり、現地入りを決断させてくれたのもブログにコメントを頂いた皆さんだった。



↑南三陸町の防災対策庁舎はそれまでメディアの中だけの話だったが、実際にその前に立つと「自分は本当にここにいるのか?」と不思議な感覚になった。左後方の志津川病院も屋上付近まで津波が到達し多くの犠牲者を出す惨事となったが、その時の生存者と広島で開催された宮城県の物産展でお会いする機会があって貴重な証言を聞くことができた。




↑陸前高田市も多数の犠牲者を出す結果となったが、消防団の犠牲者も突出していた。元の市街地は堅牢な市庁舎やショッピングセンター、体育館などしか残っておらず、時折巡回するパトカー以外無人の荒野のようになっていた。現在この付近はかさ上げのため土の下になっているはず。




↑釜石市も沿岸部は壊滅的な被害を受けている。この時は実際に訪れていないが、釜石港には大型貨物船「アジアシンフォニー」号が突き刺さったままだったはず。また、旧2中の体育館はまだ遺体安置所として使用されていたと思われる。

 


↑山元町にある常磐山元自動車学校は教習生や職員の多くが犠牲になった。ブログで知り会った方の中に地元の方がおり、実際に現地を案内して頂いたが前途ある若者が犠牲になったことは遺族ではない自分でも悔やみ切れない。
(※掲載写真は2011年8月筆者撮影)


 長年ブログを続けていると他コンテンツに移行して疎遠になったり鬼籍となられた方もいる。人間にはタイムリミットがあるので繋がりを永久に保つことはできないことは分かっているがやはりそれは寂しい。そしてこのコロナ禍で2019年8月以降現地に行くことは中断しているが、この盆休みに決行するつもりで現在準備中である。色々ダラダラやっていますが今後も当駄ブログにお付き合いの程宜しくお願いします。