2011年3月11日は多くの人に忘れられない日となった。今から11年前は今日と同じ金曜日、年度末や卒業式などを控えた「普通の1日」となるはずだった。当時の自分はトラックを運転しながら現場へ向かっていたが、FM放送が突然中断し「東日本でかなり強い地震が発生した」旨を伝えていた。しかし地元の民放だったこともあり、それ以上詳しいことはラジオでは報じられなかった。会社にはテレビがなく、あの頃はまだガラケーだったこともあって三陸沿岸などで大惨事が起きているとも知らずに仕事を済ませて帰宅した。(↑一枚目写真は当時の号外)
帰宅後のニュースでも帰宅困難者や九段会館の天井崩落事故などを伝えるものの津波の被害を伝える報道はなく、「大きな揺れだったのに人的な被害はなかったのか…」と思っていた。しかしそれも束の間、夜8時を過ぎた頃から堰を切ったように沿岸部の被害が報じられ始めた。自分がいつも通り仕事をこなしている間に前述の慈恵園や防災対策庁舎、志津川病院などでは多くの人たちが犠牲になっていたのである。その時点では詳細まで知る由はなかったが、多くの人が犠牲になった大災害が起きているということは間違いないと思った。
その日からは時間が許す限りテレビはニュースを見るようにして仕事で移動中の車ではNHKのラジオを聞いていた。また、自分は外部と繋がったパソコンを持っていなかったので社長の許可を得て会社のパソコンのネットから情報を収集した。もともと自分はインターネットやSNSの類いに興味がなかったためそうした方面は疎かったが、震災以降テレビや新聞などでは限界があることを痛感して考えを改めるようになった。現在は個人でもリアルタイムで事故や災害などを瞬時に拡散したり知ることができる時代だが、11年前に比べると隔世の感がある(震災当時でもそうした情報発信はあったと思うが)。
その一方で情報を鵜呑みにすることの危うさも感じるようになり、やはり実際に被災地に行かなければ分からないこともあるのではないかと思うようになった。それまで東北とは全く縁のない自分だったが、何度も被災地を訪れたりSNSのやり取りがきっかけで現地の方々と繋がりを持つことができた。そうした人たちの生々しい話や現地の惨状は自分がアクションを起こさなければ知り得ないことばかりだったはずである。あの震災は自分のそれまでの価値観や考え方を一変させる出来事だったが、あれから11年も経つとあの大災害も多くの人から「過去にあったこと」として忘却の彼方に追いやられているかもしれない。周囲はどうあれ自分は許す限り東北に足を運び続けたいと思っている。
最後に震災で犠牲となられた方々のご冥福をお祈りすると共に未だ行方不明の人たちが1日も早く親族の元へ帰れることを願ってやみません。