明治以降日本に鉄道網を張り巡らせようと各地で建設が始まったが、それに伴い様々な問題も起きている。SL時代は「桑の木が枯れる」「山火事の原因になる」などとして住民からの反対運動が起きたケースもあるが、特に用地買収や立ち退きなどのトラブルも枚挙に暇がなかったと思う。
今回はJR呉線の呉~三原間にある「レールが分断した」場所をいくつか紹介したい。なお、この区間は1930(昭和5)年より三原側が着工、呉側からも次第に進延していき1935(昭和10)年全通となった。
↑川尻駅の西側には神宮神社が勧請しているが、参道入口と鳥居の間にはレールが横断している。踏切はやや西側にあるため神社へ行くには灯籠と石柱のある場所から入れない。地元の人によると現在の国道185号線付近は海だったそうで、線路を敷設するスペースはこの位置しかなかったということなのだろう。
↑コレは今回のネタとは別件だが、川尻駅東側には日本一短いとされる川尻トンネルがある(全長8.7m)。パッと見はアーチ橋梁のようにも見えるが、本来ここはちょっとした山だったとのことでれっきとしたトンネル。この上に県道248号線(さざなみスカイライン)を建設したため上部が削られ、このように橋のようなトンネルになったそうである。
↑もう1つ別件で、日本一短い県道がJR安登駅前にある(県道204号線)。左側は国道185号線で右側は安登駅。中央の横断歩道がある辺りが県道204号線で全長は10.5m。これは以前ヤフーブログでも紹介したが、国道と安登駅を結ぶ区間が「主要道路と駅を連絡する道」となるため県道に指定された。国道の拡幅や駅前広場ができたためこのような短い県道となった。
↑幸崎~須波間には皇后八幡神社があるが、こちらもレールによって参道が分断、このため跨線橋が作られた。本来は海側から石段を登って社殿に行くようになっていたが、1931(昭和6)年に鉄道のルートが計画された時に路盤が参道にかかることが判明(この付近も現在の国道付近は海だった)。迂回するには多額の費用がかかることもあり神社側はこれを快諾したが、これまで通り参拝できるように跨線橋を設置してもらった。なお、跨線橋の柱はレールを流用している。
↑須波~三原間にある真観寺も参道がレールで分断されたため跨線橋が設置されている。建設も先ほどの皇后八幡神社と同じ頃だろうから似たようなレール支柱タイプ。周囲の地形からすると路盤建設の際に山を開削して切通にしたのだろう。
↑今回最大の物件?は三原駅であろう。三原駅は1894(明治27)年に建設されたが、この時も路盤用地がこの付近しかないためなんと三原城のど真ん中になってしまった。三原城は小早川隆影により1567年に築城された三万石の城で、地元民にも親しまれた城だけに反対も根強かったという。しかし山陽鉄道もコスト削減のため最短ルートを通したい思惑があり、頑として変更は受け入れなかった。しかも三原城の受難はこれで終わらず、1975(昭和50)年に山陽新幹線が開業すると駅舎や高架橋はついに本丸の一部も削り取ることになった。
↑当時の古地図に線路を重ねてみた(赤線部分)。駅舎は[三原駅]の文字付近。小早川公も自分の城に新幹線が通るなど夢にも思わなかっただろうが、「銀魂」の世界みたいに幕府が存続していたら城主や家臣も江戸に参勤の時は城から新幹線に乗っていたのか?とアホなことを考えてしまった。(笑)
※かつては鉄道の敷設において利権を目論んで「我田引鉄」のようなことが行われた一方、前述のように強い反対運動が起きたケースもあった。こうしたドラマも今となっては忘却の彼方だが、何気ない路盤や周囲の状況からそうした過去を推測するのもまた一興かと。
(参考文献)
広島「地理・地名・地図」の謎
唐沢明・監修 実業之日本社
橋とトンネルに秘められた日本の土木
三浦基弘・監修 実業之日本社