2011年8月11日の午後、自分は仙台駅に到着した。色々思うところがあって三陸の被災地に足を踏み入れることになったのだが、震災から5ヶ月あまりの被害も生々しい場所に自分は来てしまった、という複雑な気分になった。
 駅ナカの花屋さんで献花用の花を購入して駅前で予約していたレンタカーを借りた。ひとまず三陸道を石巻方面に走らせたのだが、最初の目的地は当初から大川小学校と決めていた。児童、教員84名が犠牲になった大川小学校の惨事は多くのメディアが取り上げていたが、あの場所で3月11日に何が起きていたのか自分なりに知りたいと思ったからだった。
 三陸道から見える景色から津波の生々しさを感じることはできなかったが、河北インターを降りて北上川右岸に車を進めていくとその爪痕が次第に露となっていった。大規模半壊した家屋、打ち上げられた漁船、そしてカーナビに表示される施設が全くなくなっていることに5ヶ月前の惨事は実際にここで起きたのだと今更ながら思い知らされた。途中で機動隊のバスやパトカーの車列とすれ違ったが、おそらく集中捜索を終えて引き上げるところだったのだろう。


 でこぼこの砂利道を進むと左手に新北上大橋が見えたので「三角地帯」といわれる場所に車を止め、歩いて行くと特徴のある大川小学校の校舎が見えてきた。テレビやネットのニュースでしか見たことがないこの場所に自分が実際に立っているのに何故か現実味が感じられなかった。まだ頭の中が整理されていなかったからなのだろうか? 校庭だった場所は瓦礫の集積所になっていたためそれ以上は進まず、三角地帯に設けられた献花台に花を供えて持参した線香を手向けた。合掌していると「これから未来がある子供たちがなぜ犠牲になる必要があったのか」とあまりに理不尽な仕打ちに涙が出た。当時は「避難中に津波に巻き込まれた」という程度のことしか知らなかったが、車で雄勝峠方面に避難できたのではないか?という思いはあった。その後大川小学校の惨事を自分なりに調べるきっかけになったのも現地を訪れて感じた疑問がきっかけだったのではないかと思う。


 新北上大橋はこの時はまだ左岸側の橋桁が流出したままだったので渡ることができず、この後志津川(南三陸町)の宿泊施設へ行くために大迂回を強いられることになった(※45号線もまだ通行止めだった)。橋のガードレールを見ていると、上流側に曲がっていることに気付かされるが、津波がかなりの勢いで橋桁を乗り越えたこと思い知らされる。


 一旦河北町方面まで戻り、飯野川橋で対岸に渡って再び北上川河口に向かう。対岸の北上町も支所が壊滅するなど多くの犠牲者を出しており、あちこちに被災した車が山積みになっていた。

 中には様々な生活用品も集められており、これらのものはどんな人が使っていたのだろうか?と思わずにはいられなかった。そしてその人たちがどうか無事でいて欲しい、と。
 そうこうしていると夕陽が西に沈み始めたので志津川へ向かうことにした。