以前当ブログ「何もない所に~」で尾道鉄道の廃線跡について掲載したが、尾鉄の歴史を調べていると昭和21(1946)年8月13日に発生した脱線転覆事故についても知ることになった。大まかなことは以前の記事に書いたが、その後もこの事故のことが気になって自分なりに調べる一方で再度現地に行ってみた。


↑現地に今もひっそりと残る慰霊碑

まずは脱線転覆事故の様子についてあらためて当時の新聞記事などから詳細を記載しておく。
↑尾道鉄道の脱線転覆事故を報じる8月15日付の山陽新聞(赤矢印部分)

〈尾鉄転覆事件詳報〉
「尾道鉄道13日午前10時30分尾道発市行き電車が150名近くの乗客を乗せて午後1時過ぎ頃御調郡木の庄村字石畦(いしぐろ)停留所を発車して急勾配にさしかかった時、ポールが外れたため満員電車が猛烈な勢いでバック、約1000m逆戻りしたのち脱線、乗客約150名を乗せたまま転覆、死傷者100名余を出した。尾道鉄道株式会社並びに尾道警察当局は転覆の報を聞くや現場にかけつけ折柄来合わせた付近部落民青年団等の救援隊と協力して現場の整理重傷者の救護に当たった。現場は凄惨を極め異常な混乱を惹起したが、救援隊の大童の活躍によって重傷者は早速同村佐々木病院に収容、尾道市内笠井、大林、地許、佐々木の各外科医も総出動して手当に当たった。14日正午現在までに判明せる被害者は死者45名、重軽傷者56名という多数に上り、車掌さんも犠牲になった。なお、行方不明も加わり近来にない大惨事を現出した。(以下略)」
(8月15日付・山陽新聞)

15日になると事故の詳細が判明し、死傷者についても氏名や住所等を掲載している。当時の記事からは生々しい惨状と混乱が伝わってくるようだ。また、同紙では転覆事故で奇跡的に助かった女性(当時32)の証言も掲載しているのでこちらも記しておく。↓

「石畦を出てあの坂をしばらく上り、もう少しで畑停留所へ着くだろうかと思われた所でポールが外れたため電車がバックし始めました。最初は徐々に下がって行くようでしたが次第にスピードを増し、ブレーキが効かぬため物凄い勢いとなって約半里(2km)ぐらいも下がったと思う時カーブに差しかかりアッという間に脱線、轟然たる音響とともに山手へ向かって転覆しました。私は子供二人を連れていたので二人を抱き、咄嗟にその場に伏せました。幸いなことに私は最前方の左入口付近にいたため、バックした時最後尾になり、しかも山手へ向かって転覆したため下敷きにもならず命拾いしたわけです。転覆の瞬間、阿鼻叫喚地獄絵図を現出、見ていられませんでした。思い出しても胸が痛みます。」
※この女性と二人の子供は幸い軽傷ですんでいるが、インタビューが事故直後ということもあり、70余年も前の事故でありながらこちらも生々しい惨状が伝わってくる。

もう一人、事故当時13歳だった中田永由さん(インタビュー時78歳)の証言も併記しておきたい。

「畑駅手前のトンネルに入った時突然ポールが外れ、電車は停止、車内は真っ暗になりました。(中略)どうにもできないうちに電車はスルスルと逆走を始め、下り坂でしたからどんどんスピードは増していきます。外側にぶら下がっていた乗客は逆走中に飛び降りたり、振り落とされた人もいました。『しゃがめー!しゃがめー!低うならんとひっくり返るぞー!』運転士の必死の叫び声が車内に響き渡っていました。カーブにさしかかった時、電車の屋根の角が電柱に衝突し、屋根と車体の下部分が真っ二つに割れました。そのまま真っ二つになった車両は線路下を流れる崖下の川の方へ落ち、乗客は電車と一緒に川へ落ちた者とレールに投げ出された者とに分かれました。私はレールの上に投げ出された方で、大人二人の間に潜り込む形になっていました…(以下略)」。
※運転士は少しでも車体の重心を下げて転覆を防ごうと乗客を床に伏せさせたと思われるが、その努力も空しく電車は逆走した末に転覆した。事故の状況は新聞に掲載された証言と中田さんでは異なる部分も見受けられるが、今となっては詳しい事故状況などは自分には分からない。


石畦駅を過ぎると4%(鉄道なら40パーミル相当)の上り勾配が連続する。たまたま近くを通りかかった年配の男性に尾鉄のことを伺うと、現在の国道184号線はかつての路盤を拡幅して転用しており、旧道は川沿いの谷間にあったという。慰霊碑や旧2号トンネルのことなども色々ご教示頂いた。最盛期には4両編成で運行していたそうで、「あの頃はまさか線路があった所を車が走るようになるとは思わんかったわいね…」と言われた。


ポールが外れた事故現場が果たしてどこだったのか確定はできなかったが、状況からして旧6号トンネルで発生したのではないかと思う。現在は大規模な切通しになってトンネルは姿を消した(写真奥が下り方向・Googleマップの矢印部)


上から逆走してきた電車は写真奥のカーブで転覆したのだろうか?(写真は石畦方向から畑駅方向を見上げた所・Googleマップ❌印付近)

逆走事故を調べていると、この時逆走した電車は果たして何キロくらいのスピードが出ていたのだろうか?という疑問が頭に浮かんできた。物理が得意な人なら勾配や摩擦係数、加速度や車体重量などから計算できるのかもしれないが、自分はそこまでできないので代わりにある実験?を試みた。車が来なくなった時を見計らい、6号トンネルがあった付近から停止状態のセリカのギアをニュートラルにしてパーキングブレーキを開放、アイドリング状態の惰性で1000m程下ってみたところ事故現場と思われる付近では時速60キロになっていた。実際はレールを走る車輪とタイヤでは摩擦係数(転がり抵抗)は異なるし、車体重量や旧路盤と現在の国道が同一ではないので意味がないかもしれないが、仮にあの急勾配を満員電車が時速60キロで逆走した時の恐怖感がどのようなものだったかは言うまでもない。(※危険なので真似しないで下さい。)


〈逆走事故がもたらしたもの〉
この事故では乗客・乗員45名が犠牲になるという当時としては未曾有の鉄道事故となった(※尾道鉄道側は37名としている)。原因については戦中・戦後に車両を酷使したにも関わらず満足な整備ができなかったこと、それに伴うブレーキの不具合とされている。また、運転士の経験が浅く、想定外の事態に対処できなかったとも言われている。事故を重く見た地元市町村の青年団や通勤、通学に利用していた近隣の学校などが協議して尾道鉄道側に責任ある態度を取るよう申し入れている。
一方、尾道鉄道側は外れやすいトロリーポールをビューゲル式(※)に順次改め、事故で大破した木造客車「デキ1」は鋼製客車「デキ21」に改造された。

 〈最後に〉
尾道鉄道の逆走事故は今から74年前の出来事であり、尾道鉄道の存在自体も知る人が少なくなっていると思う。こうしたことに再び目を向け、発掘した尾道学研究会や在野の研究者の方々の努力には敬服するばかりである。いつもながらこうして実際に現地を訪れたり文献を調べていると遠い過去の出来事が一気に手元に引き寄せられ、自分の身近で起きたことのような思いを痛感する。


(※…ビューゲル式)
電車の集電装置。トロリーポールが架線に対して滑車状のホイールで「点接触」しているのに対しビューゲル式は「線接触」している。トロリーポールは構造が簡単で低コストだが、架線からの逸脱やポールそのものが架線等を切断するケースがあること、ポイント区間の通過などでは手動でポールを移動しなくてはならないため次第に廃れていった。ビューゲル式はスライダーシューを架線に圧接しているのでトロリーポールのような逸脱はないが、路面電車など比較的低速な車輌向き。別名「布団タタキ」

ビューゲル式集電装置(赤矢印部)

※引用文献については前回記事参照