昨日夕飯を食べながら「ブラタモリ」を見ていたが、この日は天明3年(1783)旧暦7月8日に起きた浅間山の大噴火について取り上げていた。その年の4月頃から始まった浅間山の噴火は6月末から7月初め頃に本格化し、8日昼前頃ついに大噴火を起こす。




↑噴火の様子を伝える「夜分大焼之図」
「人屋焼失死亡多シ、焼灰ノフリ方雪ノ如シ」 との記述が書かれている。

その中で、噴火に伴う土石流に呑み込まれた鎌原村についても取り上げられていた。鎌原村の惨事については以前ヤフブロでも取り上げたが、ブラタモリで紹介されたので改めて書いてみようと思う。鎌原村は街道筋の宿場町として95戸あまりの集落を形成していたとされ、それなりに賑わっていたという。しかしこの日の大噴火に伴って発生した土石流は9㎞離れた鎌原村を巻き込み、集落は6メートル余りの土砂に埋もれてしまった。古文書の記録によるとこの噴火と土石流に伴う犠牲者は477人、高台にあった観音堂に逃れた93人が辛うじて助かったという。


嬬恋郷土資料館の前館長で、鎌原村の発掘調査に長年携わった松島榮治さんは観音堂の発掘調査で二人の遺骨を発見している。
松島さんは発見された時の状況から、若い女性が年配の女性を背負って観音堂に逃れようとしたが間に合わず、生き埋めになってしまったのではないかと推測した。これを群馬大学医学部の古川研教授が鑑定したところ、背負っていたのは30~50代の女性、背負われていたのは45~60代女性と判明、松島さんの推測を裏付ける結果となった。松島さんは「若い女性は(災害弱者である)年配の女性を見捨てて逃げることができなかったのでしょう」と話している。

また、復元された顔から二人は親子だったのではないかとのこと。もし若い女性が一人で観音堂に避難していればおそらく助かったのではないかと思う。しかし年配の女性を背負っていたため観音堂まであと少しというところで二人とも犠牲になってしまった。このことを知った時、自分は東日本大震災の惨事を想起せずにはいられなかった。自分が以前陸前高田市で話を聞いた女性の親族は市の職員(福祉関係の人?)だったため役場の庁舎に避難せず、高齢者を助けに行って二人とも津波の犠牲になったと聞かされた。天明の大噴火は今から230年以上昔のことであるが、発見された二人の遺骨は長い時間を超越して浅間山大噴火で起きた惨状を今の我々に生々しく伝えている。そしてそれはあの震災と何ら変わらないリアルな惨事だったと自分は感じるようになった。

現在の日本は各地で大規模な自然災害が多発し、誰が被災者や犠牲者になってもおかしくない時代である。貞観津波や天明の大噴火のような過去の災害をおとぎ話のように捉えるか、今の我々にも降りかかるかもしれないと思うかはその人の受け取り方次第だと思う。



参考文献
歴史の足跡をたどる 日本遺構の旅:昭文社

天災から日本史を読みなおす
磯田道史著:中公新書