今日はクリスマスイブ。
ということで今夜は妻と二人でチキンを貪り食べる。
もう1週間、何事もなく平穏に過ごして今年を終わりたいと思う。

さて、信長シリーズ第3回目。

日本に現存する資料を幾つか読んで分かったことは、やはり信長の最期は謎に包まれているということ。
しかし、本能寺を抜け出してある場所へ向かったとしても、
それを裏付ける資料は現存していない。
というよりも誰にも知られず、隠密行動を取ったものと思われる。

本能寺脱出においてイエズス会の宣教師が関わっていたという推測も、
イエズス会側の資料を見る限り関与を匂わす記述は無い。

 ところが、
信長から歓待されたイエズス会宣教師で巡察師の
アレッサンドロ・ヴァリニャーノという人物の動きがかなり怪しいということに気がついた。


アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
Alessandro Valignano1539215 - 1606120)は、
キリシタン時代の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会司祭
イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。


ヴァリニャーノが当時の東インド管区の東端に位置する日本(口ノ津港)にたどり着いたのは1579天正7年)725のことであった。
この最初の滞在は1582(天正10年)まで続く。


ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ、
大友宗麟高山右近織田信長らと謁見している。
1581年、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、
屏風は教皇グレゴリウス13に献上されたが、
現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。

また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、
弥助と名づけられて信長の直臣になっている。

また、日本布教における財政システムの問題点を修正し、
天正遣欧少年使節の企画を発案した。
これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、
ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。
1582年、ヴァリニャーノはインドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。
~~~~~~~~~~Wikipedia

細かいことは省略するが、
天正9年(1581年)9月、
アレッサンドロ・ヴァリニャーノは信長と謁見し、非常な厚遇を受けている。
その時、おそらく日本脱出に関して信長はヴァリニャーノと密議を交わしたかも知れない。

それに則り、カモフラージュとして
ヴァリニャーノは天正9年12月に天正遣欧少年使節を立案、

翌、天正10年(1982)1月28日、
伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノら遣欧使節を伴って長崎を出帆した。

そして2月15日にポルトガル領マカオに到着したのだが、
マカオ滞在中の6月2日に本能寺の変が起こった。

推測になるが、
信長はその3日後に、少なくとも二人の同伴者と共にある場所から出港し、
おそらく6月22日頃、マカオに到着しただろう。

遣欧使節一行は信長が来ることを事前に知っていて、マカオで待機し信長と落ち合った。

史実では、遣欧使節がマカオを出帆したのは同年12月17日となっているので、
その時まで信長はマカオで少年達やヴァリニャーノと過ごし(その間、渡欧に向けて学問に励み)、
遣欧使節と同じポルトガル船(イグナシオ・デ・リマ号)でポルトガルへ向かったものと推測する。

上記推測を裏付ける資料は全く見当たらないのだが、
「織田信長の陰謀(1)」で紹介した矢切止夫の本には、

本能寺の変の知らせがマカオに届くと、イエズズ会関係者には禁足令が発せられ、
しばらくの間、イエズス会から誰も日本へは渡航できなかったという。
 この動きが、唯一、マカオで何事かが起きていたことを裏付けているのだが、、。
(但し、引用元は不明)

この先は、スペイン、ポルトガル、ローマにあると思われるイエズス会関連文書を、
それも原書!?を物色しないと手がかりは掴めそうもない。

続きは、いつかそのうちにということで、
今回はこれにて。



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