昨日に続いて今日も昔話。
昨夜のテレビ東京の番組
>ありえへん世界の秘境”一生99%行かない!? 旧ソ連の秘境潜入SP”
親日ウズベキスタン「いつか桜を見たい」日本人捕虜79人が犠牲
奇跡の波瀾万丈物語!
を見て今は亡き父を思いだした。
父は二十歳になった昭和16年に招集され、
地元某連隊へ向かう列車の中で真珠湾攻撃の報に接した。
中国に配属となり、激戦地域に赴くこと無く、大半は北京で勤務していたという。
学歴の無い分、特技の算盤で道が開けたようだ。
(北京では”天壇”を見て感動したとか)
昭和20年8月、ソ連軍が満州国境を越えて侵入してきたため、
全軍をあげて奉天決戦ということになり、奉天へ向かったもののそこで敗戦。
(この頃、関東軍の上層部はさっさと日本へ引き揚げていたが、
何も知らされず満州に取り残された移住者達は悲惨な体験をすることとなった。
一般部隊は、奉天においてソ連軍を迎え撃つ肉弾玉砕戦を覚悟していたようだ。)
決戦することなく命拾いしたものの、
ソ連軍に武装解除されて”捕虜”となり、シベリア鉄道経由でウズベキスタン方面へ輸送された。
(その方向へ送られた2万5千人のうちの一人だった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Uz-map-ja.png
収容所の詳細は聞いていないものの、食料に欠乏していた割には、
近くのダリア川(アラル海に注ぐ大河)で大魚を釣った体験とか、
夜明けに畑泥棒へ行って危うくソ連兵の歩哨に見つかりそうになった体験とか、
同じように捕虜となっていたポーランド人?達との交流とか、
乏しい物資である紙に詩を書いて回覧していた話を聞いた。
捕囚生活2年で再度シベリア鉄道にてナホトカへ移送され、
そこで労働しながら日本への帰還船乗船を待った。
そして昭和22年の最後の帰還船に運良く潜り込むことができ、舞鶴に帰港したという。
後日談として、当時の占領軍GHQに呼び出され、
収容所の位置や内部の様子・ソ連軍関連の情報を尋問されたようだ。
ソ連からの帰還者・抑留者は、スパイ扱いだったのかもしれない。
昨夜のTV番組では、
旧ソ連のウズベキスタン首都、
タシュケントでの日本人捕虜達の勤労振りが現地の人々の尊敬を集めていたという。
そのような経緯でウズベキスタンが親日国となったとは、今まで全く知らなかった。
嫌日国に囲まれているような錯覚を起こさせるマスコミ報道に日頃接している中で、
私たちが忘れてはいけない事を思い出させてくれた番組であった。
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