2023年夏に訪れた旧イタリア大使館別荘での母
前回のポストから随分時が経ちました。続きを書くのは正直私にとってあまりにも辛いものだったらからです。私は今でも、母の最後の日々を思い出だすとバカみたいに声を上げて泣き崩れます。私は母を助けたかったのです。私が守ってやると言って母を抱きしめました。でも結局何もできませんでした。

母は最後まで末期肺癌とは思えないほど食欲もあり、声もしっかりしていて、意識もはっきりしていました。その為私は「まだ生きてくれそうだ」と期待してしまっていました。しかし少し身体を動かせばサチュレーションはすぐ80台まで下がり、足はチアノーゼで紫色になりました。母は本当は瀕死の状態だったのです。もしそれを理解していれば、私は母を壊れ物のように大事にし、「頼むから逝かないでくれ」と母の前で泣いたかもしれません。そうすればもう少し長く生きてくれたでしょうか?

親族が病院に集まった楽しいお盆休みが終わり、私も事務処理に追われたり、大雨が降ったりで、必ずしも毎日病院の母に会いに行きませんでした。これは母にとって大変心細い事であったように今では想像します。

2025年8月24日(日)、母の希望もあり、病院の許可を得て日帰りで自宅に帰ることにしました。母はお気に入りの服に着替えて嬉しそうに見えました。私は車椅子に乗せた母をタクシーで自宅に運びました。

家に帰ると、居心地のよい明るいリビングと、病院とは比べ物にならないほど大きくて見やすい液晶テレビがありました。母は自宅で寿司を食べながら、テレビでのど自慢大会を見て楽しみました。母は歩くのもままならない状態なため、自宅へも車椅子を乗り入れ、リビングからトイレまでも車椅子で私が運びました。

テレビの後、母は自室で自分の持物の片付けをしたいと言いました。母はADHDなのか、いつも部屋は散らかっており、片付けが極端に苦手でした。先日妹が来て母の部屋に宿泊したため、母は自分の持ち物がいじられていないか、酷く心配していました。

しかし母にはもはや荷物を整理するなどという体力は残っていませんでした。床に座ってガサガサ荷物をいじりだしただけで直ぐに呼吸が荒くなっていきました。あっという間にサチュレーション80台です。私は母にもう荷物整理は辞めたほうが良いと助言しましたが、母は「そう言っておまえがいつも私の邪魔をする!」と怒りました。

母の心はまだまだ活発に動きたい、まだまだ生きたい。でも母の身体は悲鳴を上げている。

私は「もう無理だよ。夕飯食べて、病院に戻ろう」と言いました。私は母の希望する鰻丼を買ってきて夕飯に出しました。鰻大盛りです。小さく痩せた母ですが、鰻丼の半分はしっかり食べてくれました。

タクシーで病院に戻った母は、看護師に自宅帰りの話をしていました。
「鰻食べたかったけど、多過ぎてもう鰻食べたいと思わなくなったわ」
看護師は笑いました。
会話だけを聞いてると、母はまるで元気なようで、余命わずかなどとはとても思えません。私はそれに騙されていたのです。