#294 落語家団体小史 | 鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

落語家の大半は下記のいずれかの団体に所属して活動している。

●落語協会(1923年設立 現会長:四代目柳亭市馬

●落語芸術協会(1930年設立 現会長:春風亭昇太

●上方落語協会(1957年設立 現会長:笑福亭仁智

●圓楽一門会(1978年設立 現会長:六代目三遊亭圓橘

●落語立川流(1983年設立 現代表:十代目土橋亭里う馬

 なお、二代目枝雀の弟子を始めとする三代目米朝一門数人が上方落語協会を脱会してどの団体にも属していない。

 

私の独断的な考察を交えながら団体の変遷をみておこう。

●落語協会

落語界で最初に設立されたのは「落語協会(当初、東京落語協会と呼称された時もあった)」であった。1923(大正12)年のことで、関東大震災によって壊滅的な打撃を受けた東京の落語家たち諸グループが大同団結したものであった。初代会長は五代目柳亭左楽であった。以後、分裂や統合を繰り返し、戦後の1945年に現在につながる新しい「落語協会」が誕生した。この時の初代会長は四代目柳家小さんであった。

 

戦後、民主日本のスタートと共に平和の象徴である“笑い”が国民に受け容れられ、落語、漫才ブームが出現した。ラジオはもとより新しく登場したテレビがブームに拍車を掛けた。二代目圓歌五代目志ん生八代目文楽三代目金馬八代目正蔵八代目可楽六代目圓生三代目三木助四代目圓遊五代目小さんらの名人を一挙に輩出し、四代目小せん初代三平小金馬(後の四代目金馬)五代目圓楽歌奴(後の三代目圓歌)五代目円鏡(後の八代目圓蔵)八代目志ん馬ら若手がテレビの人気者になり、ひいては落語界を盛り上げた。「落語芸術協会」の初代金語楼らの人気と併せ、“東京は落語、上方は漫才”と言われた時代であった。

 

その後は五代目柳朝九代目扇橋七代目談志木久蔵(後の木久扇)三代目志ん朝十代目小三治らがファンを着実に開拓して行った。

 

1978年、落語協会に一大事件が起きた。協会(会長:五代目小さん)が打ち出した“真打大量昇進方針”に異を唱えた大幹部の六代目圓生が弟子の五代目圓楽ら一門全員を引き連れて脱会し「三遊協会」を設立したのであった。興行の景気付けを優先させた協会と芸の実力を重視した圓生の対立であった。圓生の死後、五代目圓楽がこの会を引き継いで「圓楽一門会」と呼称を改めて圓楽一門だけの集まりとなり、圓生の他の弟子たちは協会へ復帰した。

 

圓生に同調して脱会していた七代目談志は5年後の1983年に独自に「落語立川流」を立ち上げて個性豊かな一匹狼的な活動を開始し、多くの落語家が参集した。

圓生も談志も落語界の隆盛を願っての行動であったが落語協会の分派的な活動と見做されて寄席から締め出され、活動の場の制約を受けることになった。後に五代目圓楽は自費で「若竹」という寄席を作ったが短期間で経営難に追い込まれ、廃止された。テレビの長寿番組「笑点」がこのグループの救いとなったことであろう。五代目圓楽の死後も「圓楽一門会」は引き継がれ、現在に至っている。

 

一方、「落語立川流」は主にラジオとテレビに活動の場を求めたようであった。このことが幸いしてか、マスコミの強みと優れた人材が集まったことによって、今では70名ほどの大きなグループとなっているようである。

 

その後は楽太郎(六代目圓楽)小朝歌之介(四代目圓歌)らが気を吐いて現在に至っているが、落語協会は現在少し元気さに欠けるように私は思う。

 

●落語芸術協会

1930(昭和5)年に、落語協会の古い体質に飽き足らず、落語界に新風を吹き込もうとした六代目柳橋初代金語楼らが脱会して「落語芸術協会(当初は日本芸術協会)」を設立し、柳橋が初代会長となった(この後44年間も会長職に在った)。以来、落語芸術協会は五代目今輔四代目米丸など新作物で一時代を築いた噺家たちが幹部を占めてきた。古典に固執していては落語界は衰退するという危機感がそこにはあったのであろう。現在でも新作物に意欲的な会員が多いという特徴がある。

 

落語家と言うより映画やテレビで大活躍して喜劇王と呼ばれた初代金語楼、今に繋がる大グループを築いた二代目小文治五代目柳昇、破壊された顔を売り物にしてテレビの寵児となった四代目痴楽、死の間際まで落語に打ち込んだ歌丸二代目小遊三昇太などの名人・上手・人気者を輩出し、落語協会を上回る勢いを感じさせるものがある。

 

●上方落語協会

東京とほぼ同時期にスタートした上方落語であったが漫才に押されて刺身のつま的な寄席活動を余儀なくされて来、組織的な活動というものはなかった。そんな中で20世紀初頭頃、親分肌であった七代目文治100人ほどの落語家集団を作っていたのが特筆される。「上方落語協会」が結成されたのは1957(昭和32)年のことで、会員数は僅か18名であったという。初代会長は三代目染丸で、後に上方四天王と呼ばれる六代目松鶴三代目米朝三代目春団治それに三代目小文枝(後の五代目桂文枝)が幹事として、また、圓都四代目文團治が名誉会員として名を連ねていた。

 

だが、活動は順調とは言えず、上方落語の灯が消えるかという状況が続いた。こうした事態を打開したのが上方四天王と呼ばれた上記の4人であった。上方落語ファンの掘り起こしに努め、三代目仁鶴二代目枝雀三枝(後の六代目文枝)文珍二代目春蝶などの傑出した弟子を育てたのも大きな功績であった。

 

1970年に大阪万博が半年間にわたって開かれて大阪の街は活況を呈し、演芸場も賑わった。大学に落語研究会(落研)が誕生して大卒若者の入門が増加、また、ラジオで若手落語家の起用が相次いだことなどで人気が出、この頃、会員数が50名を超えた。

だが、寄席が漫才に席巻されて活動の場を僅かしか与えられないという状況は続き、1972年頃からは、なんと教会(写真)を借りて興行(島之内寄席)を打つ有様で、三代目南光は、「キリストの像にお尻を向けて一席伺いました」と当時を述懐している。

 

 

そして一大転機が訪れた。それは民放テレビの「ヤングおー!おー!」(19691982年放映)に若手落語家がレギュラーとして大挙出演したことであった。その顔触れは、三枝(後の六代目文枝)三代目仁鶴八方さんま文珍四代目小染きん枝などであった。この番組で関西の若い層の落語ファンを得たことは確実で、上方落語界にあって大きな出来事であったと思う。この頃、会員も100名を突破した。

 

だが、その後、活動の場である寄席が次々に姿を消していき、道頓堀に五つも軒を並べていた角座などの寄席が全滅となる事態が生じ、お寺を活動の場にする等の苦境は続いた

1990年代になって、上方落語のみならず落語が過去の遺物として忘れ去られそうな時期があった。そんな時に登場し、落語離れをしていた上方のみならず全国の落語ファンを呼び戻し、さらにはファンを拡げていったのが二代目枝雀であった。大阪弁が東京でも認知されていたこともあって上方落語が改めて脚光を浴びることになったのであった。この時期に同じような働きを見せたのが東京の小朝であった。知的なくすぐりで古典落語を現代に甦らせたというのが二人に共通した特徴で、正に救世主であったと私は評価している。

 

(道頓堀・大阪 2019年)

三代目米朝1996年には人間国宝に指定され、2009年には落語界初の文化勲章を受章し、上方落語中興の祖と呼ばれた。ところが、そういう大きな功績があったにも関わらず、上方四天王のうちで三代目米朝だけが上方落語協会長に選ばれなかったという不可解な出来事があった。それを不服として二代目枝雀一門ら十数名が協会を脱会するという事件が起きている。

 

 2006年、大阪天満宮の敷地に待望の落語定席である「天満天神繁昌亭」(写真)が開業した。これは当時会長の任にあった三枝(後の六代目文枝)の熱意が実現させたものと言っても過言ではなかろう。そうした活気付けもあって2008年には会員が200名を超え、現在の上方落語界は東京落語界に勝るとも劣らない存在になっていると私は思っている。

 

 

 

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