(本文を読むときには良く読んで欲しいと思います。誤解を生みやすい内容ですし、

私自身の文章力の未熟さも原因ではあるのですが・・・)

 

         ~前置き~

キリスト教の常識や知識が神様のみこころを捉えていないと言う話です。

ここの話ももしかしたら、明日には古い常識になるかも知れません。

神様の恵みは日々、大きくなっているのです。

 

 

罪を犯したら、告白して悔い改めて、赦しをもらう。

キリスト教によくある話です。

 

 

しかし気づかない罪はどうなるのでしょう?

御霊に示してもらうという人もいるでしょうが、

そもそも何が罪で何が罪じゃないのでしょうか?

 

ここに矛盾が存在します。

(これは決して悔い改めを悪いと書いている訳ではありません。

反省や修正、罪や悪い事を自覚するために悔い改めは良いのでしょう)

 

 

 

罪を犯したら、告白して悔い改めて、赦しをもらう。

ここに矛盾がいくつも存在しています。

(矛盾と言うのは、イエス・キリストのあがないとの間にです。)
 
罪の告白や悔い改めは  (原罪と呼ばれるものは除外します)

自分の欠点や失敗の元を自覚するためには有益でも、それ以上の意味を持つのでしょうか?

そう考えたことはないでしょうか?

 

実は告白しようが悔い改めをしようが、

イエス・キリストにあるなら、罪はもう存在しないのでは?

と、ならないでしょうか?

 

もちろん、蒔いたとおりに刈り取りをし、行いに応じて報いを受けます。

神様が悪と思われる事を、そのままにされるとは思いません。

 

イエス・キリストとしっかりと繋がる事、そのあがないはそれほど大きな出来事なのです。

 

 

私自身、罪の悔い改めはしません。もちろん反省や、改善は取り組みます。

以下の説明にあるように、神様がそれを望まれ、私を矯正されたからです。

私は罪を犯したなら、イエスの贖いと十字架にある事を感謝し、神の御業を褒め称えます。

もちろん、誰かに対して負の物をしてしまったなら、刈り取りはするのですが・・・


 

 

 

この事は神様が私を導かれた経験から与えられた恵みです。

以下、要約した証しになります。

 

 

私自身、かなり罪に関して厳格な教会で信仰をスタートしたせいもあり、

あらゆる罪に、あらゆる時に悔い改めをしていました。

 

罪と思われる思いや行いを見つけた瞬間に心で悔い改めをし、

毎日、何十回も何百回もしていました。

自分自身に正直じゃない。そんな事も悔い改めの対象でした。

 

ある日、自分の気づかない罪はどうなるのだろうと思い。

祈りの度に、「気づかない罪があれば示して下さい」と祈りに加えていました。

 

 

それを何年も続けていましたが

ある日、「私の罪があるなら示してください」と祈ったところ・・・

 

「悔い改めるな。イエスの十字架を感謝しなさい」

と、神様に心に語り掛けられました。

神様からの言葉は不思議で疑いもなく、悟りと確信が与えられていました。

 

イエスの十字架で罪のあがないがされている。

自分の罪を見るより、イエスのされた事へ目を向けるようになっていきました。

罪を見つける度に、自分が許されたことを感謝し、神様の恵みへと目を向けるようになっていました。

 

もちろん、罪は罪のままではなく、それから離れる事ができるようにと言う事もしています。

 

 

こうなるとイエス・キリストから離れる訳にはいきません。

罪の悔い改めより、よりイエスに強くしっかり繋がるようになっていきました。

必死でイエスと繋がる事を求めていくようになりました。

(なぜなら離れるなら、(日々の)罪のゆるしがなくなるかも知れないと思っていたからです)

 

神の御業は素晴らしいのです。

罪を悔い改めるより、イエスと常にしっかりとつながるようにと、

導きを下さったからです。

私は悔い改めを選ばず、許されたイエスのあがないに希望を置きます。

正直、これを実行するのは勇気がいると思います。

天国に行くか?それともがかかっているからだと思いますが・・・

一つの神の恵みだと思っていただければと思います。

 

(罪を侮っている訳ではありませんが、

イエスの十字架のあがないの前では人の犯しただろう罪はどれほどなのでしょうか?

例え、もし、報いが必要なら、全ての支配者である、神様がそれをされないでしょうか?)

 

神は生きてはいないとも言うのでしょうか?

 

 

 

今回の例は、少し難しい内容かも知れません。

結局、何が言いたいかと言えば、

 

キリスト教の常識や知識が神様のみこころを捉えていないと言う話です。

ここの話ももしかしたら、明日には古い常識になるかも知れません。

 

御霊が自由に、キリストにある者を導かれるように、

固定観念や固い信念も大事ですが、神様がされたいことへと目を向けては見てはどうでしょうか?

ガラガラと、キリスト教の常識と呼ばれるものが、崩れていきます。

 

 

正直、なんでもいいし、何を失敗してもいいのです。

神様と共に歩んでいるのなら・・・

 

神によって、全ては素晴らしく、益となり、良いものへと変えて下さるのです。

神様に不可能はないし、神様はもっと大きなものを見ているかも知れません。

 

チャレンジしなければ失敗はしません。

チャレンジしなければ、新しいものに出会うのは難しいと思います。

 

大事なのは、神様に信頼する事です。

進むのも、止めて下さるのも、神様は理由があってそれをされるのです。

 

 

 

自分の悟りに頼るな。

神様は今も新しい扉や、価値観を開こうとされています。

まだまだ、神様についても、恵みについても、信仰についても未熟で発展途上なのです。

まだまだ、神の恵みはこんなものじゃないのです。