異言についてのはなし その2

 

 

違う異言のはなしを

 

では私なりの回答を

違う異言とはなんなのか?

実際に近くにいる訳でも知り合いにいる訳でもないので仮説になります。

(とは言うものの、御霊の導きによってこれを書かされているのできっと正しいでしょう)

(異言のことを記事にしようとすると激しい圧迫や邪魔を感じるのでさらに神様が望んでいるのだと正しいと確信を強めます)

 

 

まず御霊、聖霊ではない

聖霊が内側におられるなら異言は聖霊による異言になります。

聖霊が住まれているのに違う異言がでるのはありえません。

聖霊は強い方であり、イエス・キリストのあがないのしるしです。

聖霊 = あがないの勝利にあずかると認められたもの

光と闇は共存しません。(聖書より ヨハネの手紙一 1章5節)

 

聖霊がおられない人が偽りの異言っぽいことで教会や集会に紛れ込み、

異言は危険だと認識させて異言をやめさせて、

とりなしの祈りと言う武器を奪う。か自ら捨てさせる

 

残念ながら、これが教会やクリスチャンに仕掛けられる戦いであり、戦略です。

 

 

聖霊の異言の、とりなしの祈りや聖霊を通して、神様との交わりの機会を奪っているのです。

 

 

本来、教会が神のみやとして機能しているなら聖霊や神様が守られるので

のようなことは赦されないはずだと、

単純に私は思うのです。

 

家に泥棒が入られた状態だと

家が荒らされている状態だと

 

偽りや策略に、惑わされていると私は考えるのです。

 

 

違う異言が教会や集会の紛れ込むこと自体が問題であり、

何か問題や間違いがあるしるしであると思います。

 

例えば神様は存在しない、イエスのあがないはないと言われて。はいそうですとなるでしょうか?

それと同じくらいのことです。

 

 

わたし自身、聖霊の異言以外認めていませんが、残念ながら、現時点であるみたいです。

だとしても聖霊の異言は、使い、神様との祈りとして用いる事をおすすめしたいのです。

 

どこでどのようにとは、また別の議論として。

 

 

 

異言の事をネットで目にした

違う異言も残念ながら存在している。

異言は不要だとか、危険だと言う意見も多く非常にびっくりしました。

 

今回は異言についてのはなし

 

 

違う異言は本当に存在するのだろうか?

聖霊の賜物の異言なら違う異言が存在しうるのだろうか?

聖霊は違うものより弱いのか? 聖霊と違うのが共存しうるのか?

光と闇は混在しない

 

異言が聖霊による賜物なら、違う異言は偽りであり、

言葉を変えれば聖霊の賜物でもなければ、異言と言ってもいけないものだと私は思うのです。

 

 

偽りの異言、異言は危険

 

この事は非常に上手い戦略であり、やり方です。

聖霊による異言は、有用な理由が多いからです。

異言を不要だとか危険する事で、

教会やクリスチャンを神様の恵みから遠ざけ、弱体化するのに役に立ちます。

教会やクリスチャンが弱くなり、偽りが入り込む要因の一つです。

 

 

聖霊の異言は、御霊が神様のみこころにそって、とりなし、祈りをする

人々、特にどこかのクリスチャンの必要を神様にお願いをして解決や助けを届けます。

神への祈りであり、願いであり、そしてみこころに沿った願いなので、解決なのです。

 

異言が悪だ、祈りなら日本語でいいと言う人がいて、

日本語でとりなしの祈りをどれだけできているでしょうか。

人々の必要を知り、理解し、祈りや願いとして神様に届けられているのでしょうか?

神様のみこころにそった とりなしの祈りをできているのでしょうか?

 

 

異言は悪だ、危険だと言って、異言を危険視したり禁止するのはおすすめできません。

クリスチャン同士のとりなしや助け合いの祈りのボリュームや頻度を下げて、

結果的に教会やクリスチャンから神様の恵みを受ける機会を奪い、問題解決を阻害していく

 

教会やクリスチャンが豊かや強さ、信仰的な発展をしない理由の一端になっています。

 

 

非常に巧妙で上手いやり方です。

教会やクリスチャンが神様が与えくださった恵みを自ら否定、手放し、無駄にもがく事になる。

聖霊の賜物を軽く見て、もっと有益な神の恵みへの探求をくじいてしまう。

非常にもったいない事です。

 

聖霊の異言は神様とのコミニュケーションです。

コリント人への手紙第一14章2節 4節

 

 

 

違う異言も現時点では残念ながら存在していて

それについても書いていく予定です。

まあ、聖霊のあるところ、強い人がいる家には存在しえないのでしょうが・・・

 

 

タイトルの通り神様は愛です。

神は愛。神様をあらわす言葉です。

 

神は愛。

この事は、アメリカで起きていることの何が正しく、何が神様のみこころ、

神様が望まれていることかを判断する基準として与えられた言葉です。

神は愛。そこに愛があるのか。  動機として目的として。

 

神様の望まれる事は、愛であり、神は愛というのが神様のみこころであり望まれることです。

あらゆるものを判断するとき、まずそこに神の愛があるか? それが神様のみこころである証拠です。

もし神様からのものと言われているのに愛がないなら少し立ち止まる必要があります。

(ここの愛とはコリント13章のところの内容が具体的でわかりやすいでしょう)

 

 

聖書は神からの愛であり、聖書のみことばは愛というフィルターを通して読み解く必要がありあます。

愛は律法のもとであり、

神を愛することと、隣人を愛することが律法の要求を全うするのです。(ローマ13章8節から)(マタイ22章37から)

 

愛の具体的な内容ははコリント13章の4からにあります。

 

 

神は愛なのです。

 

神様は愛ゆえに人に十戒を与え

神様は愛ゆえにイエスをこの地に遣わしてくださいました。

 

神様と共にあるものは愛を求め、実行していくのです。

 

 

残念ながら今は厳しい時代に入ってしまいました。

よくよく注意しないとこの地上の生活が終わった後、どうなるかは保証されないでしょう。

 

 

神は愛であり、神様と共にあるものは愛を基準にしたいものです。