信仰とは。信仰というより、神様との関係は・・・

 

 

信仰は、神様を知り信じ信頼することと、自分自身の限界を知る。 その繰り返しです

 

 

神様を知らなければ、信じる事も信頼する事も困難です。

神様が良い神様なら、神様が必ず益として下さるなら、信頼し信じる選択をできます

 

信仰というのは神様を知るステップです

 

神様がどのような方か知り、体験し、経験をし

本当に信頼をしていいのか?良い神なのかを知っていくのです

 

ほとんどの人は良いものならそれを選びたいと思うでしょう

 

 

もちろん神様にも人格(?)はあります

計画もあり、されたいこともあります

 

 

人それぞれの神様の接し方は変わります

 

 

信仰というのは神様を知るステップです

 

 

神様を良い神様だと知らなければ、信じ信頼できない

自分が正しいと思うなら、神様は必要としないし、信頼は寄せない

 

自分の弱さを知り受け入れる事は、神様の方へと向く一歩です

いくら良い神様だとしても、必要としなければ見向きもしないでしょう

 

神様に出会って、信仰を持って、なお苦しみや試練に遭うのはこの為です

 

神様を知り信じ信頼すること

自分自身の限界を知る

 

神様との関係を深くするため、神様は人が苦しみや試練に遭うのを許されるのです

 

 

 

生まれ変わり

 

最近、神様から示されること、生まれ変わり

生まれ変わりと言っても、聖霊が私たちの内側に住まわれること。

 

 

イエス・キリストを信じて、イエスの十字架の贖いの恵みを受け

信仰により、肉が死んだ状態になると、霊に聖霊が来られ住まわれる。

 

聖霊によって、霊に命が与えられ、霊である神様を知り始める。

 

 

生まれ変わりとは、信仰の最初のステップです

聖霊が内側に住まわれる事により、異邦人である私たちは神様との関係が確立されます。

 

 

世の中のクリスチャンと呼ばれる人のうちどれくらいが生まれ変わり、聖霊が内側に住まわれているのでしょうか?

と、言うのも聖霊がおられないなら、ただの人であり、人が聖書の御言葉や神様を知識として持っているだけだからです。

人は肉の性質をもった人であり、聖霊がおられなければ、神様のみこころや、神様が望まれるようになるのは苦だからです。

 

 

知識としてみことばを持っているだけだからです。

知識として信仰を持つ、生まれながらの人です。

霊である、神様や神様の本質を知る事は難しいでしょう。

 

イエスによって聖霊が人に送られたのは、本当に深い意味があり、

選ばれたユダヤ人ではなく異邦人に福音が預けられているのも、深い意味と計画があります。

人にはできない事を、神様はして下さったのです。

 

 

聖霊が内側におられると、内側から自然につくりかえられる事を経験します。

それは、人の努力や力ではなく、神の御業なのです。

心や思いが、神様の考えや性質、神様が望まれている方へと自然に引っ張られて行くのです。

それはまさに、聖霊が内側から働かれているからであり、肉の性質を持つ人が変わるようにと助けてくださっているのです。

 

 

イエスが日々、弟子に教えたように、聖霊が内側から教え、導いて下さいます。

 

 

生まれ変わりというのは、キリストにあるもの、神のみこころを行う人になる為に必要な事です。

必要というより、本来は必須な事です

 

ただの人は、知識として聖書や御言葉があるだけです。世の人と何ら変わりません。

変わることは困難でしょう。

変わるとしても人の努力によるからです。

 

 

イエスの十字架の贖い恵みを受け

信仰によりイエスの十字架の死と同じ状態と神様にみられ

霊に聖霊が住まわれる

 

これはキリストにある者の最初のステップです。

私たちは聖霊によって、恵みで、神様のみこころを知り、行う事ができます。

 

これは人によるのではなく、神の御業であり、神の恵みです。

人が誇る事がないように、神様を誇るようにこのようにされたのです。

 

 

 

聖霊が内側におられる事は、信仰を歩む上でとても大切な事です。

多くの教会は知りませんが、信仰が人間的な理由やもめ事があるのは、

人が宗教として知識として、キリスト教を、信仰を持っているからです。

 

 

神様はそれを変えようと思っているようです。

 

 

 

で、この先があります。

(興味がない方は飛ばして下さい)

 

神様は、カトリックにおいて生まれ変わり、聖霊が住まわれる事を考えておられるようです。

それはそうでしょう。人が人なら変わりません。信仰も、神の計画も進むはずはないのです。

 

私自身、世界のキリスト教には詳しくはないのでしょうが、将来はカトリックとかにおいても、

生まれ変わり、聖霊が住まわれ、神のみこころを知るようになると思います。

 

 

聖霊が人の心に神のみこころを示し、

霊において知識において、神の国の恵みと法則を知り、行うようになります。

人が愛に満ち、神の性質を世にあらわすようになります。

 

これがはじめであり、世に神様とイエスの十字架の恵みをあらわしていくでしょう。

神様と神の御国の素晴らしさを世が目の当たりにします。

 

かなりの時間を要するとは思いますが・・・

 

 

 

で、何が言いたいかと言えば

 

人は変わらないと言う事で。

生まれた場所、文化、教育、家庭

様々な成長する段階で価値観や考えが作られて行きます。

その中で正しいものといいもの、間違いを価値観として持ちます。

 

それは世の中でできたもので、神様の価値観と、神様が考えている事、計画と違う場合でも、

簡単に持っている価値観を変える事は難しいでしょう。

成功体験や失敗体験も、たくさん体感しているでしょうし

 

しかし、神様ならそれは可能なのです。

聖霊によって、内側からも助けて下さいます。

人にできないというか、困難なのです。

 

人には不可能な事を神様はして下さいます。

 

生まれ変わりとは、神様の道を行くには必要な事です。

変わるのではなく、神様によって変えられるのです。

 

イエス・キリストの十字架と、

イエスによって遣わされた聖霊が、

それを可能にします。

 

人は神様によって変えられていくのです。

 

 

 

聖書にはこう書いてあります。

 

わたしに信頼するものは失望することはない

神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益として下さる

 

神様を、本当の神様を信じることの恵み、素晴らしさの一つです。

そして神様との関係の中で決定的なのは、与えられる。という事です。

 

神様によって与えられる

これが真の神様との関係の根幹です

 

 

なぜ、神様が人に与えられるのか?

様々な理由があるでしょうが

 

神様という存在を知るため

神様を世に証しする為

 

主にこの二つが理由としてあると思います。

神様が計画に沿って人を選び、神様の元へと導くのは

神様ご自身を知り、神様の素晴らしさと、神様ご自身を世に証しする為に

人を神様へと導き、養い、時に試練で訓練し、恵みや証しを下さるのです

全ては神様ご自身を世に証しする為になのです。

 

 

私自身はこう考えるのです

神様に出会ってしまった以上

神様と共に歩むと決めた以上

神様を証ししていかなければならないし、

神様がどのような方か世に示さなければならないと思うのです

()

*証しはどのような方法かはそれぞれでしょう・・・

 

残念ですが神様を証ししない生き方など、諦めなければならないでしょう

(残念と書いていますが、神様の素晴らしさを知るとそれは自然にそうなるのです)

それ以上に神様に祝福されるのは覚悟しなければなりません

多くの人に、あらゆる方法で、可能な限り・・・神様を証しし、神様を知ってもらうために

 

 

神様は本当に素晴らしいです

神様に不可能はないのです

不可能に見えるならそれは不要か、訳あってそれをされていないのです

 

キリストに召された人は、(本当の)神様を証しする為にここにいるのです

 

 

 

 

・・・ゆえに強くなければいけないし持たなければいけない

   と、私は切に思うのです

   (人の必要を満たすことが出来なくてどう神様が生きておられると証しできるのでしょう・・・)

 

まあ、現実はそうも上手くいきませんが日々、種まきや耕すことぐらいはできるでしょう・・・