信仰を説明しようとするときどの角度からがいいのかとは思うのですが

今回は祈りです。

 

 

祈りのポイントは待ち望む、聞く耳と心を持つです。

 

父なる神は私たちの必要を知っていて、愛する子には与えたい満たしたいのですから・・・願う前から必要をご存じです。

 

 

祈り会では祈り、願い、求める姿をよく見かけます。

しかし、神様が何を望まれているのか、なぜ与えるのか?なぜ与えないもしくは待たされるのか?

与えられたものをどう活用して欲しいのか?神様の私に対する目的やして欲しいことは などなど

神様には必ず理由があるのです。

 

神様が何を望まれているのか?神様のみこころを聞くことをあまり見ません。

(そもそも見えてない神様のみこころをどう確かめるかを学んでいるのか? という問題もあると思います)

祈りのポイントは待ち望む、聞く耳と心を持つです。

 

 

神様には計画があり、目的があります。

神様の元に召されたのも理由があり、何かご自身の地上での代弁者としての理由が存在します。

 

みこころに沿った祈りは聞かれる。 本当にその通りだと思います。

 

祈りのポイントは待ち望む、聞く耳と心を持つです。

みこころにかなう祈りは聞かれ、神様の方を向いて入れは何かが開かれるのです。

 

(*もちろん個人的な望みも、神様は私を喜ばせようとして聞き入れて下さることもあります。)

 

 

 

みこころの祈りについて・・・

~ たとえ話 ~

 

祈りとその答えや実を受け取るのは、家と扉の前に立つ神様に例えられます。

 

家が私自身であり、

神様は実と答えを持って扉の前に立たれています。

 

 

普通(私の知る知識や感覚として)

祈りは扉を叩いて開けて下さいのイメージが強いと思います。

しかし、逆であり神様の答えと実を招くのです。

 

私が願うと神様が扉の前に立っておられます。

私は扉を開けます。どうぞお入りください。 と

 

神様が家の入られない時は、迎い入れる準備が出来ていない時です。

部屋が汚れてる。おもてなしの準備が出来ていない。約束したものを準備できていない。 などなど

 

神様が祈りの答えを下さらないのは、私の準備がまだだからです。

神様は準備ができるまで、扉の前で待って下さいます。

 

祈り求めると言うことは、扉を開き、神様の答えを招いているのです。

神様の答えを受け取る準備はできていますか?

 

 

 

~本題~

 

今回は、祈りにおいて同じ言葉の繰り返しや、何度も同じことを願い続ける事について考えてみようという話です。

もちろん気持ちは分かります。聞かれたかどうか、良い祈りか分からないなら満足するまで繰り返して安心感を得ようとするのは理解できます。

 

しかし、その時間を自分を整えたり、聖書を読んで神様の事を知ったり、人々に愛と優しさの時間にしたり・・・

もっと益のある事はできないのだろうかと思うのです。

神様はひとことでも、神様に向けて願われた祈りには目を向けて下さるのです。

 

みこころに沿った祈りは聞かれる。 という事なのです

 

何度も何度もある意味しつこく願う事であなたの心は満足するでしょう。

しかしそれは繰り返すという行いであり、信仰ではないのです。

頑張ったという心は満たされるでしょうが、

 

祈りとは神様の御心に叶う願いなのです。

頑張るなら、神様を知る事や、人に愛と優しさを向け、神の愛というみこころを実践した方が益となります。

 

 

 

祈りのポイントは待ち望む、聞く耳と心を持つです。

多く語るより、より聞く耳を持ちたいものです。

 

神様の答えはあらゆる所に転がっています。

日々の出来事を注意深く信仰と神様的な目線で見ればそれが神様からの答えであり、問いかけです。

 

久々になります。

日々の日常が忙しいのと、思いわずらいが多いのは非常に良くないです

神様との時間が少なくなり、神様との距離ができてしまいます・・・・

 

前回の記事が途中でしたが、中々つながりが与えられないので今回は違うテーマにします。

 

 

最近、神様のテーマになっているのは生まれ変わり

つまり聖霊を内側にむかいいれること

 

 

少しだけ・・・知らない方もおられると思うのでお話を・・・

聖書的?に言えば人は、肉、魂、霊で構成されています

 

肉は肉体であり、魂は感情や思考の部分、霊は聖霊が来られ住まわれる場所です。

人は創造され、エデンの園に置かれた時、霊は生きた状態でした。

ゆえに肉の目が開かれてなくても見えたのです。

 

アダムが主である神様から自ら離れた結果、霊のいのちの源である神様からも離れ、

霊は死んだ状態になったのです。

 

 

・・・

イエスによって聖霊が遣わされ、霊に聖霊が住まわれる事により、霊がいのちを持つのです。

 

ここまでが大まかな概要です。  あくまで大まかなです。

 

 

生まれ変わり、生きるとは神様的には聖霊が霊に住まわれる状態を言っています。

神様がしきりに主張されるのは、聖霊がいないなら、ただの人であるという事です。

ただの人・・・世の中の多くの人となんら変わらない人です

 

イエス・キリストと聖霊が遣わされて住んで下さる大きな意味は、生まれ変わりです。

肉の世の人から、聖霊が内住されれ霊が生きた人になる事です。

 

 

神様によって生まれ変わった人は内側から変えられて行くのです。

変わるのではなく、変えられていく。神様によって変えられるのです。

 

聖霊が内側におられるなら、霊から魂に影響がいきます。

思考や考えが、主のみこころへと影響を受けるのです。

 

この生まれ変わりこそ、キリストにあるもの、主のみこころを生きるための鍵なのです。

 

 

聖霊によって変わっていく、変えられていくのです。

 

 

それは人の力ではなく、神の恵みです。

霊からの価値観が、魂、思考や考えに影響を与えるのです。

あたかも、イエスが隣りにいて共に歩み、生活をして下さるかの如く

思考や考えが(イエスを真似る様に) 影響を受け続けるのです。

 

神様のみこころ、望みを知っていくのです。

 

 

聖霊によって変わっていく、変えられていくのです。

 

 

信仰とは。信仰というより、神様との関係は・・・

 

 

信仰は、神様を知り信じ信頼することと、自分自身の限界を知る。 その繰り返しです

 

 

神様を知らなければ、信じる事も信頼する事も困難です。

神様が良い神様なら、神様が必ず益として下さるなら、信頼し信じる選択をできます

 

信仰というのは神様を知るステップです

 

神様がどのような方か知り、体験し、経験をし

本当に信頼をしていいのか?良い神なのかを知っていくのです

 

ほとんどの人は良いものならそれを選びたいと思うでしょう

 

 

もちろん神様にも人格(?)はあります

計画もあり、されたいこともあります

 

 

人それぞれの神様の接し方は変わります

 

 

信仰というのは神様を知るステップです

 

 

神様を良い神様だと知らなければ、信じ信頼できない

自分が正しいと思うなら、神様は必要としないし、信頼は寄せない

 

自分の弱さを知り受け入れる事は、神様の方へと向く一歩です

いくら良い神様だとしても、必要としなければ見向きもしないでしょう

 

神様に出会って、信仰を持って、なお苦しみや試練に遭うのはこの為です

 

神様を知り信じ信頼すること

自分自身の限界を知る

 

神様との関係を深くするため、神様は人が苦しみや試練に遭うのを許されるのです