タイトルの通り神様は愛です。

神は愛。神様をあらわす言葉です。

 

神は愛。

この事は、アメリカで起きていることの何が正しく、何が神様のみこころ、

神様が望まれていることかを判断する基準として与えられた言葉です。

神は愛。そこに愛があるのか。  動機として目的として。

 

神様の望まれる事は、愛であり、神は愛というのが神様のみこころであり望まれることです。

あらゆるものを判断するとき、まずそこに神の愛があるか? それが神様のみこころである証拠です。

もし神様からのものと言われているのに愛がないなら少し立ち止まる必要があります。

(ここの愛とはコリント13章のところの内容が具体的でわかりやすいでしょう)

 

 

聖書は神からの愛であり、聖書のみことばは愛というフィルターを通して読み解く必要がありあます。

愛は律法のもとであり、

神を愛することと、隣人を愛することが律法の要求を全うするのです。(ローマ13章8節から)(マタイ22章37から)

 

愛の具体的な内容ははコリント13章の4からにあります。

 

 

神は愛なのです。

 

神様は愛ゆえに人に十戒を与え

神様は愛ゆえにイエスをこの地に遣わしてくださいました。

 

神様と共にあるものは愛を求め、実行していくのです。

 

 

残念ながら今は厳しい時代に入ってしまいました。

よくよく注意しないとこの地上の生活が終わった後、どうなるかは保証されないでしょう。

 

 

神は愛であり、神様と共にあるものは愛を基準にしたいものです。

 

久しぶりの記事になります。

ずっと遠ざかっていましたが、神様に急かされるように記事をアップしていこうと思います。

私の希望は、神様がスタンダード(日常)になる事です。強スタンダードですが・・・

 

神は愛です。神には不可能はありません

 

なぜ、神様を信じるか。

と言う事はおいて、

 

 

信仰とは、神様を信じるチャンスがある事は、非常に幸運な事です。

信仰とは、(念の為、但し書きとしてここの信仰とはイエス・キリストの父である神様を信じる事です)

 

 

 

神様との関係は、父と子とあるように

養育するものと、養育されるものからはじまります。

ここに矛盾が生じるのですが、肉体や精神は大人だったり、成人していたりします。

信仰のスタートは赤ちゃんからであり、何もできない所からはじまるのです

 

神様から与えられ、教えられ、学ぶことからはじまります。

受け身なのです

 

信仰の入り口も、はじまりも、神様からの受け身(与えられること)からはじまります。

与えられることから信仰はスタートします。

 

 

もしもこれが自分から得たと思うならどう思いますか?

もし、あなたが全てを準備をして整えて与えたのに、自分で得たと言われたらどう思いますか?

神様は悲しまないでしょうか?

 

信仰を説明しようとするときどの角度からがいいのかとは思うのですが

今回は祈りです。

 

 

祈りのポイントは待ち望む、聞く耳と心を持つです。

 

父なる神は私たちの必要を知っていて、愛する子には与えたい満たしたいのですから・・・願う前から必要をご存じです。

 

 

祈り会では祈り、願い、求める姿をよく見かけます。

しかし、神様が何を望まれているのか、なぜ与えるのか?なぜ与えないもしくは待たされるのか?

与えられたものをどう活用して欲しいのか?神様の私に対する目的やして欲しいことは などなど

神様には必ず理由があるのです。

 

神様が何を望まれているのか?神様のみこころを聞くことをあまり見ません。

(そもそも見えてない神様のみこころをどう確かめるかを学んでいるのか? という問題もあると思います)

祈りのポイントは待ち望む、聞く耳と心を持つです。

 

 

神様には計画があり、目的があります。

神様の元に召されたのも理由があり、何かご自身の地上での代弁者としての理由が存在します。

 

みこころに沿った祈りは聞かれる。 本当にその通りだと思います。

 

祈りのポイントは待ち望む、聞く耳と心を持つです。

みこころにかなう祈りは聞かれ、神様の方を向いて入れは何かが開かれるのです。

 

(*もちろん個人的な望みも、神様は私を喜ばせようとして聞き入れて下さることもあります。)

 

 

 

みこころの祈りについて・・・

~ たとえ話 ~

 

祈りとその答えや実を受け取るのは、家と扉の前に立つ神様に例えられます。

 

家が私自身であり、

神様は実と答えを持って扉の前に立たれています。

 

 

普通(私の知る知識や感覚として)

祈りは扉を叩いて開けて下さいのイメージが強いと思います。

しかし、逆であり神様の答えと実を招くのです。

 

私が願うと神様が扉の前に立っておられます。

私は扉を開けます。どうぞお入りください。 と

 

神様が家の入られない時は、迎い入れる準備が出来ていない時です。

部屋が汚れてる。おもてなしの準備が出来ていない。約束したものを準備できていない。 などなど

 

神様が祈りの答えを下さらないのは、私の準備がまだだからです。

神様は準備ができるまで、扉の前で待って下さいます。

 

祈り求めると言うことは、扉を開き、神様の答えを招いているのです。

神様の答えを受け取る準備はできていますか?

 

 

 

~本題~

 

今回は、祈りにおいて同じ言葉の繰り返しや、何度も同じことを願い続ける事について考えてみようという話です。

もちろん気持ちは分かります。聞かれたかどうか、良い祈りか分からないなら満足するまで繰り返して安心感を得ようとするのは理解できます。

 

しかし、その時間を自分を整えたり、聖書を読んで神様の事を知ったり、人々に愛と優しさの時間にしたり・・・

もっと益のある事はできないのだろうかと思うのです。

神様はひとことでも、神様に向けて願われた祈りには目を向けて下さるのです。

 

みこころに沿った祈りは聞かれる。 という事なのです

 

何度も何度もある意味しつこく願う事であなたの心は満足するでしょう。

しかしそれは繰り返すという行いであり、信仰ではないのです。

頑張ったという心は満たされるでしょうが、

 

祈りとは神様の御心に叶う願いなのです。

頑張るなら、神様を知る事や、人に愛と優しさを向け、神の愛というみこころを実践した方が益となります。

 

 

 

祈りのポイントは待ち望む、聞く耳と心を持つです。

多く語るより、より聞く耳を持ちたいものです。

 

神様の答えはあらゆる所に転がっています。

日々の出来事を注意深く信仰と神様的な目線で見ればそれが神様からの答えであり、問いかけです。