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 元ブログ「彰の介の証言」から、新自由主義批判、新平等主義シリーズをコピペしています。新自由主義批判といいつつ、最近では、絶対悪ではない・・・と若干主張が変化している?様な気もしますが、一応最初から、「相対的」であるということを言い続けたつもりです。今回は、明治という時代が新自由主義的なスタートを切ったという続きとして、その啓蒙書たる「学問のすすめ」を取り上げてみました。



 多くの著名人が散々「福澤諭吉」という人物の評論をしてきたと思うわけですが、その彼に、典型的新自由主義者のレッテルを貼ろうとしているのが、素人同然の私でございます。


 
過去の記事を読んでいただいている皆様方には、何度も書いているのでご理解いただいているともいますが、私は新自由主義を一般化しようとしており、新自由主義=絶対悪とは考えておりません。あくまで相対的なものであり、逆の概念である新平等主義とその時代その時代において綱引きをして物事が決まっていくと考えています。まあ、要するに前回同様、福沢憎しで今回の話を始めたわけではないという言い訳でございます。

 
さて。福澤諭吉と言えば、「学問のすすめ」が有名ですが、その冒頭に出てくる

天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず

という一節の引用は特に有名です。さらに、「天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく・・・」と書かれており、一見すると人類普遍の平等論を唱えているように考えられているのが、この「学問のすすめ」ということになります。しかし、その後を読み進めていくと、単純な平等論とは、全く意味が違うというのがわかります。というのも、万人が万人皆同じ位と言いつつも、実際には、賢い人、愚かな人、貧しい人、富める人、貴人、下人と著しい差が出てしまうわけですが、その理由について、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりという言葉を引用し、

賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり

と書いています。要するに、人間生まれながらにして、スタートラインは皆同じなのだから、もし差ができてしまうとするならば、それは学問をしたかしなかったかの差である。だからこそ勉強しろ!努力しろ!と学問を勧めているのが、「学問のすすめ」ということになりますか。

 
ちなみに、「学問のすすめ」によって、学問を勧める、福澤の最大の目的は「日本国の独立」にあったようです。学問のすすめは明治4年から世に出ていますから、まだまだ江戸の雰囲気の残る日本において、いつ何時、西洋列強に飲み込まれるかもしれないことを憂いての啓蒙書と思われます。一国家の独立のためには、一国民一国民の独立が必要であり、一国民の独立には学問が必要というわけですね。国民一人一人を奮い立たせて、レベルアップ、ボトムアップを狙っていたのでしょう。

 
というわけで、またまた、私の考える新自由主義の定義を再々再掲してみます。

新自由主義とは「全ての個人が能力的に平等であることを前提とし(或は、個人の能力差を不平等であるとは認識しない)、努力したものが報われ、努力しないものは自己責任とする社会を実現すべく、固定化した制度や概念を出来るだけ排除していくことを旨とする主義主張」

 
新自由主義の前提条件として、全ての個人が能力的に平等であると考えるわけですが、それは、まさに「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」という言葉そのものであって、賢人と愚人、貴人と下人の差は努力の差であるとしている時点で、まさに学問のすすめの考え方は、私の考える新自由主義の定義と全く同じ考え方だといっていいでしょう。

 
固定化した制度や概念の排除という意味で福澤は、特に下の身分の人々へ発破をかけていると思われます。目指すは、江戸時代のような、お殿様が政治を牛耳る世の中ではなく、一人一人の国民による国民国家だったと考えられますから、国家というものを全く意識してこなかった身分の人々に、国家の独立というものが、一国民の独立の集合であるということを意識させ、支配されているという根性を根本から変えようというのが、この「学問のすすめ」の大きな目的だったと考えられます。

 
江戸末期、明治初期のように、まさにこれから世界に対抗すべき国力をつけなければならないという時に、ガチガチの身分制度を取っ払って、のびのびと国民一人一人が活躍していかなければならないとするならば、まさに、新自由主義的な政策を進めることが最も合目的であり、それを啓蒙しようとした福澤が、現在も一万円札の肖像にされるほど国民から敬愛されることは、特に不思議でも何でもないことでしょう。

 
ただし、当時百万部のベストセラーといわれる「学問のすすめ」に対する評価について、私は若干角度の違う見方をしています。

 
誰しも、「学問のすすめ」によって、当時の日本人の意識が底上げされたボトムアップ)と評価していると思いますし、当然福澤自身も、この底上げ効果を狙って「学問のすすめ」を書いたと思われます。現実に、当時の日本人の意識が、これによってどの程度底上げされたかは測定のしようもありませんし、底上げ効果が無かったとはとても言えませんが、しかし、この啓蒙書による日本人への効果は、底上げ効果というよりも別の効果によって日本の独立に貢献したのではないかと考えているのが、屁理屈屋の私でございます。

 
別の効果、それは、「学問のすすめ」の言わんとする内容が「新自由主義」的なのですから、当然、その内容に感動し刺激され、行動した人々も新自由主義的な人物だったと考えられることです。すなわち、過去記事に書いているように、「優秀で能力があって努力できる人」たちへこそ、絶大な効果があっただろうと思うのです。大半の、優秀でない、ごく普通の一般人が、どれほど底上げされたかは、上に書いたように測定のしようもありませんが、おそらく、極一握りの優秀な人々が、野に埋もれてしまうのを防ぎ、日本の独立を引っ張るリーダーとなるきっかけになる効果の方が遥かに大きかったのではないか・・・、というのが私の考えなのです。すなわち、つまみ上げ効果ピックアップ)こそが、「学問のすすめ」の真の効果と考えられるのです。

 
過去記事にも書いてきたとおり、バカ(あなたであり、私であり、平均的な一般国民)が、そうそう、一冊の啓蒙書によって意識を変えられるわけはないのです。新平等主義的に言えば、人間は生まれながらにしてスタートラインは同じではなく、個々に相当の個人差が存在します。したがって、個々の能力差によって、納まるべきところに納まるのが世の中というものです。しかし世の中が変わろうとしている中で、江戸の身分制度の気風のまま納まるところに納まり、埋もれてしまいそうな人物の拾い上げが絶対に必要だったわけで、その一躍を担ったのが、「学問のすすめ」ではなかったのでしょうか。

 
ということで、福澤諭吉こそ、典型的な新自由主義者であるというということをぜんぜん書けませんでしたが、新自由主義の教科書?といってもいい、「学問のすすめ」を書いた方ですから、だいたい想像がつくでしょう。もちろん、「学問のすすめ」を新自由主義の教科書なんて評価しているのは、この世で私くらいのものなのでしょうが・・・。

 
次回は、もっと新自由主義の教科書的書物の紹介と、ブラック企業の対比なんかしてみましょうか。

元ブログ「彰の介の証言」から、新自由主義批判、新平等主義シリーズをコピペしています。何となく書いているうちに、新自由主義批判から新自由主義の定義上の一般化になってきており、批判部分は小さくなっているかもしれません。今回は、幕末維新を、新自由主義的だと言うわけですが、「とんでもだ!」などのご批判をされませんよう、切にお願い申し上げます・・・。 



 一般に、「新自由主義」という言葉は、その考え方に反対の立場の人が蔑称的につけたものであるらしく、「俺は新自由主義者だ!」と自ら発言する人は聞いたことがありません。同様に、いわゆる偉人と考えられる人を、新自由主義や呼ばわりする人もいません。・・・・、私以外・・・・。

 
前回、信長、秀吉という戦国のスーパースターを、私的定義から、典型的な新自由主義者と言ってしまったのですが、違和感を覚える方々も少なくなかったでしょう。以前から書いていますが、私は新自由主義を固定した主義主張の枠組みで考えていません。あくまで、一定の方向性を持つベクトルであり(反対方向のベクトルを新平等主義と名付けました)、新自由主義的な考え方が正しいのか、間違っているのかという問題は基本的に相対的であるということを何度も確認しています。その時代の状況によって、新自由主義的な考え方が当然のように生まれ、新自由主義者が活躍するということは、私的には当然すぎる話です。すなわち、新自由主義という言葉は、絶対的悪を意味しないということです。

 
どうして、冒頭にこうして言い訳がましいことを書いているかと言えば、世界史の中の日本史として、輝かしい1ページを飾っている「幕末、明治維新」という時代を、新自由主義的な時代であったと考えており、そこで活躍したいわゆる志士達のことを典型的新自由主義者と呼ぼうとしているからです。こちらの方が、戦国時代より、相当に違和感があるでしょうか。そんな違和感を短絡的に、「誤った認識である・・・」等と言われてしまう前に、早々言い訳をしておいたという次第です。

 
幕末における日本の目標は「ヨーロッパ列強から独立を保つ」と言うことに尽きるでしょう。この目標を成し遂げるために、徳川幕藩体制を解体したというのが明治維新ということになりますか。ということは、この幕藩体制には何らかの問題があったということになります。

 
私が考えている、徳川幕藩体制の大きな問題点の一つは、250年にも及ぶ、身分制度の固定化です。江戸時代の前の戦国時代が、身分の全く保証されていない下剋上の時代だったのとは全く正反対で、生まれながらの身分というものが、その能力に関係なく、上がることも下がることもありませんでした(そうでもない部分もあったでしょうが、ここでは無視・・・・)。つまり、日本を引っ張って行くべき将軍や、地方のリーダーたる藩主、その上位の家臣などは、あくまで世襲であって、世界に対抗できる能力を備えている人物であるという保証はありません。むしろ、その後の歴史を考えてみれば、無能な人物も多かったでしょう。無論、江戸幕府がただただ無能集団だったというわけでは決してないようですが、残念ながら歴史をみてみると、下級武士達がほとんどのいわゆる幕末の志士、明治の元勲と呼ばれた人々に政権を乗っ取られることになったわけです。

 
そんな、幕末明治を考えながら、私の提唱する新自由主義の定義を読んでみてください。前回書いた内容を再掲してみます。

 
新自由主義とは「全ての個人が能力的に平等であることを前提とし(或は、個人の能力差を不平等であるとは認識しない)、努力したものが報われ、努力しないものは自己責任とする社会を実現すべく、固定化した制度や概念を出来るだけ排除していくことを旨とする主義主張」
 
新自由主義者とは、「優秀で能力があって努力できる人」であり、努力したものが報われる、固定化された制度がない自由な世界が実現できれば、思う存分その実力を発揮することができる。』

 
いかがでしょうか。極めて行動力は高いものの、本来活躍の機会のないはずの下級武士である志士達が、努力どころか命をかけて固定化した身分制度を破壊し、実力あるものが日本を引っ張っていく社会をつくりあげました。私が幕末維新を新自由主義的社会の典型と考えていることがおわかりいただけるでしょうか。

 
上記の定義では、個人主義的な、個々の利益を追求するという意味での「報われる」という言葉を使っていますので、「日本の独立」を目指した志士達に当てはめるのは不適当という意見もあるかもしれません。しかし、明治維新の達成が、身分制度に抑圧された下級武士達の鬱屈したエネルギーによるものであったことは否めません。また、本来、武士道精神から、藩の身分秩序を守ることが絶対のはずの志士達が、廃藩置県(身分的上位者への解放)や、四民平等(身分的下位者への解放)という社会構造をつくりあげました。これらを考えると、「日本の独立」という目標は、身分制度によらない、自らが活躍出来る場をつくり出すという志士達の「報われる」という意味での目的と表裏一体で合致しています。そう考えれば、上記新自由主義の定義がぴたりと当てはまると考えているのです。

 
ということで、何が言いたかったかと言えば、カチカチの固定化されてしまった社会においては、新自由主義者が活躍し、(前社会と比べ相対的に)新自由主義的社会へ変革は十分あり得るというお話です。

 
まあ、幕末という時代を、新自由主義という概念で切り取るということは今までなかったかと思います。そう考えると、あんな人や、こんな人まで、典型的新自由主義者という話になってしまいますが、次回はそんな新自由主義者の定義そのものの人をご紹介したいと思います。

元ブログ「彰の介の証言 」から、 新自由主義批判、新平等主義シリーズをコピペしています。

本日は、弱肉強食の戦国時代を取り上げてみました。まあ、私的定義によれば、戦国時代は典型的な新自由主義時代ですが、そんな時代の帰着点はどうだったのかと言うのを書いてみました。現実には戦国時代のような誰にでもチャンスがある時代を、全ての人が望んでいるわけではないという話です。



 今後少しずつ、新自由主義というものを、経済用語としてのみ縛るのではなく、かなり広げて一般化しようという試みを始めたいと思います。


新自由主義を私なりに定義すれば、過去記事に書いたとおり、

「全ての個人が能力的に平等であることを前提とし(或は、個人の能力差を不平等であるとは認識しない)、努力したものが報われ、努力しないものは自己責任とする社会を実現すべく、固定化した制度や概念を出来るだけ排除していくことを旨とする主義主張」

ということになります。そして、新自由主義者とは、「優秀で能力があって努力できる人」であり、そんな努力したものが報われる固定化された制度がない自由な世界が実現できれば、思う存分その実力を発揮していくことができるようになるわけです。


そんなことを考えてみると、「戦国時代」なんていうのは、まさに新自由主義者の天国とも言える世界だと思われます。まあ、現代のような、お金のやりとりで実力を発揮するのではなく、命のやりとりをしなければなりませんが・・・。


日本の戦国時代を考えてみると(日本に限ったことではありませんが)、完全な実力?暴力?軍事力?謀略?絶対の世界であり、私の新自由主義の定義より厳しく、固定化した制度や概念を排除していかなければ生きていけない世界と言えるかもしれません。逆に言えば、何をやってもある意味、自由?であり、だますことが悪ではなく、だまされる方が悪い、身分が上だとか、本家筋だとかそんなことはほとんど意味をなさない、「下剋上」の世界です。まさに、実力だけがものをいう、新自由主義者が目指す世界が、そこにはあったわけです。


天下統一を果たした豊臣秀吉なんていうのは、出自が農民とも、商人とも、足軽とも言われているように、下層階級の人であったとされています。信長政権において、秀吉が当時どのような扱いを受けていたかは知るよしもありませんが、出自が卑しいという点において、相当に出世のハンデであり、嫌がらせの的になったことは想像に難くありません。こんな固定化された概念を排除していった信長というのも、私から言わせれば「新自由主義者の典型」であり、それに実力で答えた秀吉もまさに「新自由主義者の典型」と言えます。秀吉による天下統一は、戦国時代が、全ての人間に出世の機会が与えられていた時代であることを示しており、実力が全ての「新自由主義者の天国」だったことも証明しているのではないでしょうか。


さて、それで私は一体何が言いたいか・・・ということになりますが、新自由主義者による、新自由主義時代の成功の先には、どのような結末が待っていたか・・・という話です。これが、あまりに当たり前の結末であるため、いちいち説明することに「おまえはバカか!」と言われるような内容ですが、我慢して読んで下さい。これは、新自由主義の段階的荒廃論 解説③ の補足と言ってもいいかもしれません。すなわち、新自由主義者というのは、行き着くところただの既得権益者に変貌するというお話です。


新自由主義者というのは、彼ら自身が活躍出来る自由な世界を造り出すことを望んでいます。もちろん秀吉が望んだ世界を、すなわち戦国時代という新自由主義者が活躍出来る世界を、彼が一から造りだしたわけではありませんが、出自を大逆転するほどの世界に造り変え、結果として天下を取ったわけです。

したがって、その流れで、すなわち、自分たち新自由主義者がのびのびできる戦国時代のような、完全な実力主義の時代を継続する方向で、秀吉は国造りを行っていった・・・・・わけないのです!!。


自分たちの主義主張における理想の社会が、新自由主義的社会たる戦国時代だったとしても、いざ、天下統一がなされたとなれば、それが新自由主義者の典型たる秀吉であろうとも、当然、自ら得た権益を他人に渡さないよう、守ろうとするものです(当たり前です)。すなわち、新自由主義的世界を終わらせるように、要するに、戦国を終わらせるように、自分に都合がいいように制度を作る(規制をがんじがらめに張り始める)わけです(当たり前です)。統一前から、戦争はやめろと各地に命令を出し、農民から刀を取り上げました。「オレが死んだら、次は実力で勝ったものが天下人になればいい!!」とは決して言わないわけです(当たり前です)。


確かに、秀吉が死んだら、実力で家康が天下を奪いましたが、新自由主義的な実力が全ての時代はそれで終了となりました。その後260年にも及ぶ、完全な身分制度バリバリの固定化の時代となりました。優秀で能力があって努力できる人間であっても、その生まれが農民であれば、農民のまま生涯を終える時代となったわけです。


それは、既得権益者の当然の地盤固めだったと考えることができます。しかし、別の言い方をすれば、何でもありで人々が苦しむ時代から、平和で安定した時代が望まれた結果であると言うこともできます。なぜなら、人々のほとんどは、秀吉のような、優秀で能力があって努力ができ、常に実力をいかんなく発揮したいと考える新自由主義者なのではなく、ただの一般人(新自由主義者からみればただのバカ、過去記事参 )に過ぎないわけですから・・・・。


新自由主義的世界というのは、一見、万人に夢を与える世界のような気がしますが、実際にはほんの一握りの優秀な人間達の欲求を、一時的に満たすに過ぎないということを、認識すべきというお話でございました。


ということで、次回は、幕末維新のお話に・・・・・、まさか、幕末の志士達って新自由主義者??

 元ブログ「彰の介の証言」から、新自由主義批判、新平等主義シリーズをコピペしています。ただ最近になって新自由主義とは?ということを考え始めましたので、昔はマスコミの垂れ流し情報を真に受けておりました。今回は、過去記事の若干の訂正ですが、今後、さらに新自由主義を一般化して考えていきたいと思っています。

 
新自由主義について批判的な立場からいろいろと書いてきましたが、私自身もこの新自由主義を考察する過程でいろいろ考えさせられることがありました。特に、過去に自分自身がこのブログで書いてきたこととの矛盾が生じていることを自覚してきました。過去の自分は過去の自分として、一旦、現在の自分の眼で自分の過去記事と向き合ってみたいと思います。

 
特に矛盾していると感じているのが、政治家・小泉純一郎首相(当時)を非常に高く評価していたという点でしょう。小泉首相といえば、新自由主義の権化のように言われているわけですが、当時の私にそういった認識はもちろん無く、むしろ郵政解散で熱狂した一国民にすぎませんでした。

 ちなみに私が小泉首相を評価した点といえば、

①自らの支持組織にまでメスを入れようとしたこと(郵政しかり、道路しかり・・・)

②構造改革を進めたこと

③財政立て直しを進めたこと

 
まあ、大まかにはこんなところでしょうか。特に①は、私の「国会議員観」(政治家観)とも共感するところがあり、遂にこんな政治家と巡り会えたと思った次第です。

 
国会議員というのは、憲法上「国民の代表」とされているのですが、実際には、地域の代表だったり、業界の代表だったり、思想的な代表だったり、つまり、利益代表というのが現実です。しかし、当選する時は利益を代表していたとしても、それが、全国民にとっての利益でないとするならば、国民の代表たる国会議員は、利益団体を裏切り、国民のために働かなくてはならない、そもそも、利益代表として働いたとするならばそれは憲法違反である・・・・という、非現実的な理想論が私の「国会議員観」ということになります。

 
そう言う意味において、小泉首相は、自民党の票田たる郵政や道路といったところに次々とメスを入れた(入れようとした?)わけですから、中身は全く理解していなくとも、その姿勢に熱狂してしまいました。これこそ政治家だと感じていたわけです。そう言う意味において、当時「抵抗勢力」と言われていた方々は、まさに利益、利権の代表であるという認識であり、マスコミも含めた当時の雰囲気に飲まれた意見発信をしていたと言わざるを得ません。まあ、その全ての私の考えが、今となっては間違いである・・・とはもちろん思っていませんが、抵抗勢力=敵であると漠然と考えていたこと、抵抗勢力の抵抗勢力たるゆえんを全く考えていなかったことは、間違いであったと感じています。

 
それに関連して②の話をすると、構造改革とは何か?ということを、評価しているくせに当時は全く理解していませんでした。現在の私の理解でいえば、構造改革=規制緩和など新自由主義路線ということになり、闇雲な構造改革は格差を生むのみ(特に現在のようなデフレ下においては)との見解を取っているのですが、当時、改革が必要だと漠然と考えていた私は、規制緩和などの政策がいいことだと信じていました。当然、規制緩和などの政策の全てが悪いなどというつもりはありませんが、相当に慎重でなければならないわけで、そう言う意味で、一政治家が断行するものでもなく、抵抗勢力が「よく考えようよ、考え直そうよ・・・」という姿勢も今から考えてみれば当然だったという理解に変わりました。

 
そして、最近大きく宗旨替えしたのが③についてでしょうか。私はついこないだまで、国会議員の最大の仕事は、「国の借金を減らすことである」と考えてきましたし、ブログでもそう書いてきました。このままでは、日本がつぶれると真剣に思ってきました。しかし、どうもそんな考え方は間違っている・・・、いわゆる日本の財政を家計に例えて、健全化が正しいとする漠然とした考えには疑問を持つようになってきました。私ごときが、「国債の残高がどんどん増えても大丈夫なのか?」という質問に正しく答えられるわけもありませんが(多分誰も真の答えを知らない・・・)、最低限、国が支出を切り詰めることが、結果として国民の幸せになるのかということに関しては“否”という理解をしています(特にデフレ下の現在では)。これは、説明する自信がついたら(永久に説明できない説が有力ですが、笑)語っていきたいと思います。

 
結論を言うと、何となく正しい、何となく正義という「漠然とした」思いは、大変危険だったなあということです。正しい、間違っている等ということは、はっきり言ってその場でわかるはずもないことですし、国の政策のような大きな事柄は、場合によっては世紀が変わって次世代の人でないと評価できないことかもしれません。だからこそ、「漠然とした思考停止」は問題なわけです。必死に両論考え抜いて出した結論が結果として間違っていたとしても、おそらく間違いと気付いた時点で訂正がきく可能性があります。しかし、ただ熱狂して、一方を敵にして、漠然と出した答えが間違っていた場合、全く訂正がきかないか、あるいは同じ過ちを何度も何度も繰り返すことになってしまうのでしょう。

 
よくよく考えてみれば、人間の歴史などまさに過ちの繰り返しです。そして、小泉首相のおそらく誤っていたと思われる政治が、また安倍首相で繰り替えされようとしているような気がしてなりません。しかもバージョンアップして・・・。

 
ということで、新自由主義というものを一般化していく作業を進めたいと思います。時代や、人物について、全く新しい切り口で考えて、新自由主義を定義づけていきます。新自由主義を私が定義してどうするんだという話がありますが、戯れ言だと思って、もう少しお付き合い下さい。

前回、前々回と、真性新自由主義として、新自由主義が熟す瞬間と、一見悪意の無い状態から、徐々に、国家としての不利益を生み始める瞬間について考えてみました。

 
私としては、新自由主義者が競争の激しい世界を志向し、その状態を常に保とうとするのであれば、問題はあっても、それはそれで筋が通っているとは思うのですが、実際に利益をつかんだ者というのは、それを守ろうとするが人間というものです。それは、おそらく新自由主義者であっても同じだと考えています。

 
例えば、新自由主義の段階的荒廃論 解説②-前編で出した図を再掲します。新自由主義としての筋を通すのであれば、どこまでも土地を広げ、どこまでも生産量を増やし、誰か一人が勝ち残る(様な状態)まで競争をしなくてはなりません。しかし、そこまで原理主義に突っ走ることはよほどでなければできないものです。



 

 すなわち、今まで勝っていた時は、負けた者(負け組)は自己責任だから仕方がないと考えてきたにもかかわらず、今度は自分が負け組に回るかもしれないと思った瞬間、これは正しい競争ではない、何かが間違っている・・・と考え始めるわけです。まさに、筋の通らない新自由主義の崩壊です。

 
実際には、国家が、親のようにある程度の規制をかけ、過当競争を排除していくことになるのでしょう。競争をとことんまで突き詰めて、一人の勝者しか生まない場合、国家としての不利益ははかりしれません。ましてや現代のようなデフレ不況下の状況では、二極化して、多くの不幸な国民を生むだけであるのは、過去の記事に書いてきたとおりです。

 
まあ、それはともかく・・・・、新自由主義者の本当の荒廃は別のところにあります。

 
ある程度の成功を収め、世の有力者としての地位を確保した時、新自由主義者は、必ず自らの地位を確保することに全力を傾けるようになってしまいます。これは、前段で書いたとおり、新自由原理主義としての筋をいつの間にか通さなくなっているわけですが、さらに政治と結びついた場合は、いろいろと汚い手を繰り出すことになります。ここまで来ると、認識している、していないにかかわらず、悪意を感じざるを得ません。

 
実際にはあり得ない一例を挙げましょう。
 ジャガイモ生産農家のAさんは、激しい競争に打ち勝ち、それ相応の生産量を誇ってきました。ところが、そこに、新興の勢力Yさんが現れました。Yさんは、独自の肥料「ハイポックスY」を開発し、どんどんと生産量を上げています。さすがのAさんも無視できない状況になってきました。

 
こんな時、政治家と結びついたAさんは、とんでもない政治活動を始めるわけです。

「ハイポックスYの使用制限を法律で定めよう」

「ハイポックスYは、正当で自由な競争を阻害している・・・」なんて言い始めるわけです。

 
もう一つ、こちらはあり得そうと言うか、実際にある話を挙げてみましょう。

ジャガイモ生産農家のAさんが、生産したジャガイモをJ国へ輸出しようとします。ところが、J国の法律には農薬の使用制限があり、Aさんが使用している農薬のせいで輸出できないというのです。ということで、Aさんはまたしても政治活動を始めます。

J国は農薬の使用制限を撤廃すべきだ」

「農薬の使用制限は、正当で自由な貿易を阻害している・・・・」と・・・・。

 
新自由主義も、行き着いてしまうとただの既得権益者です。自分が攻める立場であれば、相手方の、あるいは国内の正当な防御機能たる規制というものを「正当で自由な競争」を理由に徹底して攻撃するわけですが、逆に守る立場になった場合も、「正当で自由な競争」を盾に自分の利益を守ろうとすうわけです。しかも、時に、ハイポックスや農薬のこと並みにあり得ないような理由やいちゃもんの場合が少なくありません。これらは全くの矛盾であり、御都合主義としか言いようがありません。まさに、私が御都合主義的新自由主義と名付け、新自由主義のなれの果てと考えている段階がこの状態なのです。

 
そう、新自由主義も、行き着けばただの既得権益者に成り下がるのです。成り下がって、消えていけばいいのですが、政治と結びついてより大きな影響力を持つと、ますます多くの人間に不利益をもたらします。新自由主義者はそもそも頭がいいですから、そうそう馬脚を現しません。むしろ「正当で自由な競争」と言われれば、むしろそれに納得してしまう人々も少なくないわけです。

 
現在の日本は、国内からも、海外からも、新自由主義の大変な攻撃にさらされています。規制緩和とか、自由貿易とか、一見それらしい言葉で納得してしまっている日本人も少なくありませんが、多くの御都合主義者によって牛耳られてしまっていることには、なかなか気付かないものです。ここは、新平等主義的観念を導入し、バランスの取れた国家運営が必要だと考えますが、皆様はいかがお考えでしょうか。

 
新自由主義について、自分なりに考察を進めて来ました。書いているうちにいろいろと気付いた点があり、少し過去記事の訂正を入れたいと思います。また、もっと昔の「彰の介の証言」の記事の中に、私こそが新自由主義に踊らされてきたということに気付いた文面があります。それも少し手直しさせてください。

 
さらに、新自由主義者列伝と歴史認識の問題までを、何とか今年中に書いていきたいと思います。

 前回は、新自由主義がまさに熟す瞬間の話をさせていただきました。いやと言うほど何度も書いていますが、私が考える新自由主義は、必然の中から発生しており、悪意の中から発生しているわけではありません。「優秀で能力があって努力できる人」たる新自由主義者の方々が考える、規制緩和や自由競争などは、普通の人が聞けば当たり前と思える内容です。そのあたり、前回の解説②-前編でご理解いただけましたでしょうか。

 
その当たり前の話を復習しておきます。Aさん、Bさんのジャガイモの収穫の話を例に考えました。Aさんは非常に優秀で、たくさんジャガイモを収穫できるのですが、規制があって(土地が広げられない)、収穫量は頭打ちとなります。Bさんは、それほど努力しなくても、あまり差ができませんので何とかやっていけた・・というのを仮定してみました。

 
そうすると、優秀な人が、「規制が発展を妨げている」と考えたとしても、一般的に間違ったこととは思えません。努力をしないBさんが、規制緩和されて没落したとしても、それも努力しないBさんが悪いのであって、「自己責任」と評価されてだれも間違っているとは思わないでしょう。

 
さて、全く問題がないと思われる上記の話ですが、確かに全く問題がありません。ただし、社会・国家が、まだ発展途上であったとするならば、あるいは、個人啓発的な話としてならばの話ですが・・・。(毎度ですが、経済学的な内容に関しては誤りがあるかもしれませんがご勘弁を。)

 私が考える問題点はいくつもあるのですが、とりあえず一点、以前、新平等主義 新自由主義的思考と錯覚-や、新平等主義 新平等主義的国家観-で述べてきたことの繰り返しになります。一言で言えば、個人の発展と、国家の発展を混同して考えてはいけないという話です。

 
ジャガイモの話で言えば、ジャガイモを作れば作っただけ売れる、すなわち、どんどん手取りの収入が増えるという状態を想定すれば、個人の農家の発展が、そのまま国家の経済力の発展になりますから問題はありません。したがって、そのような想定において、「努力してジャガイモをどんどん作れ!、努力しないやつは没落しろ!」という啓蒙は、そのまま、国家の目標となり、そのまま国家の発展につながります。実際には、努力した者はしたなりに成功するのはもちろんですが、しなかった者もそれなりに生きていけることが想定され、没落する人間は最低限に抑えられると考えられます。

 
しかし、ある程度成熟し、例えば現在の日本のように経済的な成長が止まっている社会を考えたらどうでしょうか。そんな社会では、ジャガイモは作れば作っただけ売れるわけではありません。むしろ作れば作るほど価格の低下をうむだけです。すなわち、同じ仕事量(収穫量)に対する手取りの収入が相対的に下がってしまいます(デフレ進行?)。それは、間違いなく努力しない人たちを没落させてしまいます。努力した者が努力したなりに成功するのは前段と同じですが、努力しなかった者が没落する可能性が、(収入がどんどん下がるわけですから)非常に高くなるでしょう。これは、いわゆるパイの奪い合いという状態であり、国家の発展でも何でもありません。ただただ二極化するだけということになります。

 
私は、極めて比喩的に、「努力した者」と「努力しなかった者」という言葉を使っていますが、実際にここでいう「努力しなかった者」というのは、新平等主義 「バカにバカと言える社会」--で「バカ」の定義として述べたとおり、「あなたであり、私であり、平均的な一般国民」ということができます。したがって、「優秀で能力があって努力できる人」たる新自由主義者の方々や、あるいは、「あなたであり、私であり、平均的な一般国民」が、特に悪意も感じず、当たり前と思われる内容の話も、実はただただ、平均的な一般国民の没落を意味するだけの可能性があるのです。努力した者が報われる・・・・分だけ、一般国民が苦しい生活を強いられるとするならば、それが国家としてまっとうな政策かどうかは、十分に議論されなくてはなりません。

 
もう一つ、私が極めて比喩的に、新自由主義者のことを、「優秀で能力があって努力できる人」と持ち上げているわけですが、当然のことながら、自分の努力が実ることだけを考えている方々であり、それを、「努力した者が報われる」という響きのいい言葉に変換し、陶酔してしまっているだけの集団と言えます。そんな言葉に酔ってしまっているため、あなたや私などの一般市民が没落しても、「自己責任」とすることで、罪悪感が全く生まれません。もちろん、このように自己責任として一般国民が切り捨てられることが、国家としての幸福ではないことは言うまでもありません。

 
さらに、自分の努力が実ることだけを考えている方々が、突如として国策を語り始めることがあります。「国が発展しないのは規制があるからだ」・・・と。まさに規制緩和で大成功したAさんの話に戻っていくわけですが、自分の成功・発展と国家の成功・発展を混同してしまうという大勘違いにより、ますます成功する者は成功し、没落する者は没落する社会がうまれるという、悪循環が始まるのです。

 
したがって、この悪循環が生まれる前に、なんとか新平等主義的観点から、ある程度の規制をかけて国民全体が幸福となるよう釣り合いをとらねばならないのでしょう。

 
当初全く悪意が無いと思われた状態も、いつの間にか、ある特定個人の利益のための政策になってしまっている・・・、最初のスタートがあまりに当たり前であるが故になかなかそんな変化に気付かない・・・、それが真性新自由主義と名付けた段階の、問題の芽生えと言えると思います。そして、この段階をしっかり解決できなければ、徐々に最終段階、御都合主義的新自由主義を蔓延させてしまうことになりますが、そのあたりはまた次回に・・・

元ブログ「彰の介の証言 」から、新自由主義批判、新平等主義シリーズをコピペしています。

能力主義というのは、普通の人が普通に考えることであり、特に問題はないのですが、私的には新自由主義の入り口と考えています。とはいえ、普通の人が普通に考えることであり、なかなか、その問題点について、入り口から理解されていないというのが現状でしょう。今回もう少し話を進めていますが、普通に考えれば特に問題は無く、悪意もない状態ではあるのですが・・・。


 
前回、新自由主義の萌芽、能力主義的新自由主義について解説させていただきました。ジャガイモの収穫の例を出させてもらいましたが、普通、収穫量に比例して給料を渡すのが普通だと感じてしまうのですが、現実の社会では、意外に成果に比例的ではない給与体系になっていると思われます。不思議ですね。この能力主義的な考え方は、新自由主義的な考え方を、ごく普通の人が、普通に受け入れてしまう下地になっているのですが、新自由主義者がそのベールを脱ぎ、姿を見せ始めても、それに気付かないという問題を生じさせてしまいます。

 

前回は、自身が地主になったつもりで考えたのですが、わかりやすく、今度は自前の土地でジャガイモを作る話を考えてみます。再度確認ですが、正確には経済学的に誤りがあるかもしれません。細かいところについてはご勘弁願います。例によって、AさんとBさんが同じ広さの土地を所有しているのですが、優秀なAさんは1500個、ダメなBさんは500個の収穫をあげています。
  

ここでわかりやすく、一つの仮定を掲げてみます。
 
「農家の所有する土地は、広げてはならない」という規制があるとしましょう。他人の土地を買い上げてもいけないし、新しい土地を開拓してもいけないわけです。なぜそんな規制があるかといえば、それは、総理大臣の彰の介が、Bさんたちと結託し、それほど努力しなくても農家が食っていけるように、法律を定めたからです(仮定ですからね!)。Aさんのように、優秀な人間が出てきても、土地の広ささえ抑えておけば収穫量がある程度制限されますから、Bさんのようなダメ人間の収穫量でもやっていける環境が維持されるわけで、多くの農家が暮らしていけると、言い訳までに総理が考えたのでしょう(仮定ですからね!!)。

 
Aさんはおもしろくありません。Aさんはやる気があって、努力できる人間なのです。もっと土地さえ広げられれば、より多くの収穫が見込め儲けることができるのです。しかも、やる気のない、努力しない人間が、のうのうとやっていける社会が許せません。「努力した者が報われる社会」をつくるためには、「規制緩和」「自由競争」が最も大事であると考えるに至り、大々的に世論に訴えるようになります。そしてやがて、世論に押され総理大臣彰の介が退陣、新しい総理の下、土地所有の規制が撤廃されることになりました(仮定ですからね!!!)。

 
まあ、そんな状態を想定していただいて、めでたく規制が緩和され、Aさんが新たに開墾して、土地を1.5倍に広げたのが下の状態。収穫効率が変わらないとすると、よりたくさんのジャガイモが生産されるようになり、市民としては、より安いジャガイモがたくさん食べられるようになりました。Aさんも努力によって収入を増やすことができました。そして既得権益でのうのうと生きてきたBさんは、ジャガイモの価格の下落による収入減で、苦しい生活を送ることになります。めでたし、めでたし。
  

 過去記事のとおり、こんな、優秀で能力があって努力できる人間で、その進まんとする道を塞ぐ規制や既得権益を排除すべきと考えるAさんのごとき人を、新自由主義的であると書いてきました。そして新自由原理主義とも呼べるようなこの段階を真性新自由主義と名付けました。この段階において、上記の文章通りだとすれば、Aさんに悪意がないのはもちろん、Aさん自身の努力が報われたこと、Bさんは自己責任で没落したという意味で、誰もそれが間違った改革であったとは考えません。

 
しかし、実は、規制を緩和するということは、多くの人に門戸が開かれることに他なりませんから、周りに多くのライバルが出現することになります。ライバルはBさんだけではないのです。Aさんのように、優秀で能力があって努力できる人間は一人だけとは限りません。したがって、Aさんは規制緩和を訴えた張本人である以上、新たなライバルの出現によるより激しい競争を受け入れなくてはなりませんし、もちろん受け入れているのでしょう。私が重視するのはその考えを一貫して持ち続けているかどうかです。競争こそ全てであり、没落するのは自己責任とする考えで一貫している段階であれば、それを真性新自由主義と定義して、悪意のない段階と考える訳なのです。
  

 さて、勝手にめでたしめでたしとしましたが、本当にめでたしなのかどうかについて、私はかなりの疑問を持っています。一見して、特に問題無いと思われるこの段階について、その問題点と悪意が無いから本当にいいの?という点について、いろいろと屁理屈をたれたいと思っています。

 元ブログ、「彰の介の証言から、新自由主義批判、新平等主義シリーズをコピペしています。今回は、新自由主義の原点、能力主義的新自由主義の解説をしてみました。普段当たり前に思っていることが、実は新自由主義の入り口だったりするのが、普遍性を求める私的な考え方です。


 
 前回、新自由主義の「悪意」について、その発生時期を段階論としてまとめてみました。主義主張の一貫性という意味では、成熟した成功者(新自由主義者)であっても、常に激しい競争にさらされ続けなければならないわけですが、一旦力を得た新自由主義者は、その力を確保するためよからぬ方向へと歩み出してしまうような気がします。


 今後数回、ちょっとした例を挙げて、この新自由主義の段階的荒廃論を順番に説明したいと思います。説明内容については、わかりやすくを旨としておりますので、経済学的には若干の誤りがあるかもしれません。細かいことに関しては、ご容赦いただきたいと思います。

 

さて、下の図です。わかりやすく説明するため、自分が地主になったつもりで考えてみて下さい。ある同じ広さの土地を、Aさん、Bさんに貸して、ジャガイモを作ってもらいました。

  


A
さんは必死に頑張ってジャガイモを1,500個収穫したのに対して、Bさんはサボっていたのか500個しか収穫できませんでした。例えばの話ですが、このジャガイモを売った収入が20万円あったとして、地主たるあなたは、Aさん、Bさんにこの20万円をどのように分配しますか?

 

「オイオイ、そんなの決まっているじゃないか、1,500個と500個の収穫なのだから、当然Aさん15万円、Bさん5万円に決まっとる!!」

 

と思った皆様、立派な新自由主義者として認定いたします(笑)。いわゆる前回提唱した能力主義的新自由主義の段階です。もちろん今までに何度も書いてきたとおり、上記のように完全能力制で考えてしまうことは、ごく普通のことであり、社会通念上当然とされていることですので、レッテル張りではありません。むしろ、収穫量に関係なく、平等に10万円と10万円を配分すべき・・・と考えた方がいたとしたら、(まあ、社会主義的な考え方ですが)、ちょっとおかしい、お花畑様としか言いようがありません・・・。言いようがありませんが、一応両論(①15万円と5万円の配分、②10万円と10万円の配分)の考え方を、新自由主義的及び新平等主義的な考え方を元に説明します。

 

AさんもBさんも能力は同じであり、「努力の差」が収穫量の差につながったと考えるのが、新自由主義的な考え方です。「努力の差の絶対値」が収穫量の差という、この考え方は非常にわかりやすいと思います。

 


 一方、AさんとBさんには、そもそも能力差があって、さらに、それぞれ努力できる最大値も違っているというのが、今まで表題としてきた新平等主義的な考え方です。理想的(お花畑的)に、AさんもBさんもそれぞれ各人に可能な最大の努力をしたと仮定すると、「能力差+努力できる最大値の差」が収穫量の差と考えることができます。AさんもBさんも、それぞれ能力に応じて最大の努力をしたわけですから、「努力の差」はない(努力した割合に差はない)と考えることができ、収穫量に関係なく給料を同じに・・・というのが、10万円と10万円の配分の根拠となります。

 
  


 現実には、どちらが正しいと言えるでしょうか。おそらく、AさんとBさんの間には、上記の通り、絶対的か割合的かはともかく、努力の差があると思われるのですが、残念ながら、収穫量以外の数値は能力差を含めて全くわかりません。それぞれどの程度の能力があり、それぞれどの程度努力したのか、それは全くのブラックボックスということになります。したがって、両論①②ともに、仮定に根拠が無く、努力しただのしないだのという理屈は全くの想像に過ぎませんから、どちらも正しいとは言えません。わかっているのは、歴然とした収穫量の差だけです。

 
  


 こんな時、新自由主義的な考え方と、新平等主義的な考え方が綱引きを始め、丁度釣り合ったところで給料は決まるのでしょう。例えば、基本給を6万円くらいとして、残りを能力給として、結果12万円と8万円に分配する・・・・なんてところで落ち着くのが最も現実的なところだと思います。納得いただけませんかね?。

 

実際の会社等では、ほとんど年功序列であり、実力差があったとしてもボーナス時の査定くらいしか給料の差はないわけですから、能力差よりも、ず~っと小さな給料差で社会は成り立っているはずです。つまり、今回の件について、実際には、10万円と10万円という分配に、より近い状態で多くの人が納得して働いているにもかかわらず、15万円と5万円に分配するべきと考えた人が多いであろうことは、ある意味錯覚であり、非常に不思議なことと考えることができます。

 

だからこそ、もしAさんが、

「能力だの、努力だのどうでもいいです。結果として収穫量3倍を実現しているのだからその割合通りの給料がもらえないこの世の中はおかしい!!」

と主張したとすれば、「そうだよなあ・・・」と思うのが普通なのです。

 

 さて、これからAさんが真性の新自由主義者へと変貌していきます。そのあたり、次回、また図を使って語っていきたいと思います。

 元ブログ「彰の介の証言 」から、新自由主義批判、新平等主義シリーズをコピペしてきました。今回から、新自由主義が段階を踏んで問題化していくさまを考察しました。元々悪意のない状態から出発する新自由主義も、無意識のうちに問題化し始め、最終的に御都合主義に走ります。そんな問題点を少しずつ私なりに解説します。


 

 新自由主義を批判的な立場から、新平等主義シリーズとしてまとめてきました。

 基本的に、「新自由主義」という言葉自体、新自由主義的な考え方を批判的に捉える立場の人たちから生まれた蔑称のようですが、私の立場はあくまで、絶対的な悪ではなく、相対的なものに過ぎないという考えであり、そのことを何度も強調してきました。


 すなわち、新自由主義と新平等主義は常に綱引きをしている状態であり、どちらに偏っても問題が生じるであろうということです。新自由主義が行きすぎれば格差社会をうみ、新平等主義が行きすぎれば活力のない既得権益の固まりの世界になるだろうということが想像されるわけです。


 もう一つ私が考察してきたことは、新自由主義者が、悪意を持って自らの主義主張をしているのかということに関して、‘否’という結論を持っているということです。新自由主義はある意味必然からうまれるものであって、そこに悪意はないと考えてきたわけです。


 しかし、「本当に悪意はないのか・・・・」ということを何度も考えているうちに、新自由主義というのは徐々に悪意を持っていると思われて仕方がない段階に昇華してしまう可能性があることに気付いてきました。基本的には、新自由主義の発生時点に悪意はないと考えていますが、新自由主義者が徐々に進化していく過程で、意識の有無にかかわらず、悪質な解釈を元に、悪意のある制度を作り上げてしまうことがあるわけです。そんな新自由主義者の進化の段階(三段階)を考察・分類し、今までとは別の角度で新自由主義の問題点を考えてみました。


 ①新自由主義の萌芽 「能力主義的新自由主義


 私は、新自由主義の原点を、能力主義だと考えています。すなわち、一生懸命努力し働いて、結果をしっかり出している人と、サボっている人が同じ給料だったら、それはおかしい、と思う気持ちです。当然一生懸命働いている人が、さぼっている人よりたくさん給料をもらって当然と考えることです。これを新自由主義の進化の第一段階(萌芽)として、「能力主義的新自由主義」と名付けてみました。これは過去に書いてきたとおり、普通の人が普通に考えている事であり、ある意味、社会通念上当然とされている事柄と考えることができます。したがって、この段階で当然悪意など生じていません。


 そして、これも過去に定義してきたとおり、新自由主義者というのは「優秀で能力があって努力できる人」であり、その才覚を徐々に現し、成功を収めていくことになります。


 ②新自由主義の成熟 「真性新自由主義


 自ら努力し、成功を収めた新自由主義者は、より大きな成功を収めようと考えます。しかしそこには、新自由主義者の成功を拒む「規制」が立ちはだかることになります。なぜそこに規制が立ちはだかるのかといえば、自分たち(新自由主義者)よりも、能力もなく、努力もできない人たちを守るために、既得権益としての規制が存在しているからです。それに対して、当然「フェアーではない」と考えることになります。人間一人一人は同等であり、成功を収める・収めないは「努力の差である」と考える新自由主義者は、「フェアーな競争」を望み、必然の流れの中で規制撤廃を訴えるようになります。新自由主義者は、その成功者としての成熟期を迎え、その第二段階として「真性新自由主義」とも言える、「フェアーな競争を阻むいかなる規制もなくすべき」との考えを持つようになります。さらに、規制撤廃後、実力をいかんなく発揮することになるわけです。



 ③新自由主義者の保身 「御都合主義的新自由主義


 新自由主義者が、真性新自由主義の段階で留まり、自らを極めて激しい競争の世界に留めておくのであれば、それはそれで自己一貫性があって納得できなくもないわけですが(私は納得できませんが・・・)、自らの主義主張のために自らが苦しむことになった場合、その一貫性が続くとは限りません。そこは、「優秀で能力があって努力できる」新自由主義者です。その頭の良さをフルに活用し、新自由主義の原理原則に矛盾していないように偽装しつつ、解釈変更や新たな概念を持ち出して、自らの保身に走りだす段階へ昇華してしまう場合があります。


 それは、相手から攻められた場合のブロックのため、あるいは、自らは努力することなく相手側を攻められるようにするため、あるいは多少の倫理上の問題があってもそれを覆い隠すため、等いろいろと考えられますが、簡単に言えば、


 新自由主義者にとって都合のいい制度=フェアーな競争


というあまりにも御都合主義的な本末転倒な解釈を始めてしまうわけです。それを新自由主義の第三段階として「御都合主義的新自由主義」と名付けたわけですが、これは、新自由主義の原理原則から明らかに逸脱し、人間性を失っている時点で、意識している・していないに関わらず、私には非常に強い悪意を感じてしまいます。むしろ、利己的な認識があった方が人間性を感じることができますが、無意識に屁理屈をひねり出して、都合良く解釈を変えているとすれば、その方が目も当てられません。


 ということで、ちょっと尻切れトンボですが、ざっと、新自由主義の進化・・・・能力主義的新自由主義→真性新自由主義→御都合新自由主義という流れを総論的に語ってみました。具体的な話が無くわかりにくいとは思いますが、今後少しずつ例を挙げ、この御都合主義的新自由主義に至る過程の問題を批判していきたいと考えています。

 元ブログ「彰の介の証言 」から新自由主義批判、新平等主義シリーズをコピペしています。国家を家族に例えて、個人の目標と、国家の目標の違いを明確にわけて考えてみました。そしてその中で、新平等主義的国家観という言葉を提言させていただきます。






 長いデフレ不況の中の日本における新自由主義者の思考過程は、「既得権益の中でぬくぬくと生きている人たちに渇を入れるべく、厳しい競争にさらせばいい」と考えていると思われます。それは、既得権益者が、日本の成長を阻害しているという考えもあるでしょうし、競争にさらせば、必死に頑張るだろう、という厳しいようなやさしいような考えもあるのでしょう。


 そんな考え方は、景気の良い時、或は、分野によっては、それでいいのかもしれません。景気が良ければ、私の危惧する落ちこぼれ組も、どこかで拾ってもらえる可能性がありますが、デフレの現在では、二極化するのみであろうことは過去にも書いてきたとおりです。


 ただ、「二極化」というといかにも悪いことのように聞こえますが、「既得権益の中で、ぬくぬくと生かしておくことがいいことなのか?」、「競争に向かっていく気持ちを持つことが悪いことなのか?」、という疑問はでてくるかもしれません。いくらバカな落ちこぼれ組が出るからといっても、人間としての向上心を持つこと、努力することを否定することが本当に正しいことなのか?ということについては説明しなくてはなりません。


 既得権益の一部については、前回述べたように、ただただ理由無く保護されているわけではない分野があり、経済的な効率のみで切り捨ててしまってはまずいということがあります。特に、海外との競争にさらして、日本の技術を壊滅的にしてしまった場合取り返しがつきません。そういった話は、今後このシリーズかどうかはともかく、どこかで意見発信したいと思いますが、今回は特に、「競争に向かっていく気持ちを持つこと、努力することが悪いことなのか?」ということについて書いていきます。


 結論から先に言えば、新自由主義者といわず、普通の人間が普通に考えている、競争に打ち勝っていこうという精神論は、全く間違っていません。人間として当然のことです。個人の目標として、「甲子園に出たい」という夢があり、死ぬほど野球の練習をすることを否定できるはずがありません。会社の目標として、「日本一の企業になろう、A社の売り上げを抜き去ろう」と目標を立て、それに邁進することも当然です。自分がレギュラーになると誰かが補欠になるとか、自社の売り上げが伸びれば、A社の売り上げが減ってしまうとか、そんなことを考える必要もないことは明らかでしょう。


 ただし、こういった目標、考え方は、個人の目標として、或は会社の目標としてであれば、全く問題ありませんが、これが日本という「国家」の目標や政策になる場合は相当に注意しなければなりません。なぜなら、目標の達成が、個人や、会社にとって幸福なものであっても、それがイコール「国家の幸福」とは言えないからです。一部の個人や会社の成功が、国民全員の成功を意味しないばかりか、むしろ、負け組を生んで幸福とは思えない国民を増やしてしまうからです。


 新自由主義では、規制や既得権益を、「努力しようとしない人間を増やすこと」と捉えている節がありますが、いかにもそれらしいそんな考え方は、新自由主義者だけが成功するための極めて放漫な態度であるとしか言いようがありません。国家は、国家全体の幸福を追求するために、ある程度の規制をかけて負け組を最低限度に抑えることや、手をさしのべるような制度を作らなくてはなりません。


 つまり、新自由主義的な、競争を勝ち抜く精神論は、個人の目標であって、国家の目標とすべきではないというのが私の意見であり、新平等主義の本質といってもいいのかもしれません。次のような例えが正しいかどうかわかりませんが、家族に例えてみてはどうでしょうか。


 個人的な人生の目標を掲げ、それに邁進することは何も悪くありません。ただ、落ちこぼれてしまった時、心から支えてくれるのが家族です。もちろん、親が子を時に突き放したり、子が反対を押し切って家族から飛び出したり、様々なドラマがあるのが家族ではあるのですが、心はつながっており、最後は助けてくれる、それが家族でしょう。


 優秀な兄と、できの悪い弟がいたとすれば、確かに兄が幸福になり、弟が不幸になるかもしれません。しかし、双方を温かい目で見守り、特に弟は、できが悪いからこそ、できるだけ不幸にならないよう影ながら手をさしのべるのが家族というものです。なぜなら、家族にとって、家族全体にとっての幸福とは、兄だけが幸福になること意味しませんし、弟を切り捨ててしまうことでもないことは明らかなのですから。


 これは、新平等主義的国家観と言っていいかもしれません。

 家族の構成員であることを自覚することと、家族全員が幸せでなければ、自分の幸せなど意味がないということ、そう例えることができるでしょうか。逆に新自由主義とは、家族が温かく見守ってくれているのを知ってか知らずか、家族の縛りから解放されて、自分のためだけにのびのび生きたいと考えることということになるでしょう。


 様々なドラマが家族にはありますから、完全に国家観というものを家族に例えることはできないかもしれません。優秀な兄が、家族の束縛から逃げて努力し、成功を収めることなんてたくさんあるでしょうが、成功した姿を喜んでくれるのも家族、失敗した時に拾ってくれるのも家族です。家族無くして自分無し、そして日本という国家無くして自分もないというのが新平等主義的国家観というわけです。



 ・・・・ということで、一連の新平等主義シリーズのコピペは終了ですが、また最初に戻って、まとめ を参照いただければ幸いです。現在、元ブログの方で、新自由主義の考え方を私なりに解説中です。新自由主義が荒廃していくこと、また、過去現在の新自由主義的な人間達のお話を今後書いていこうと思っています。こちらの方にも少しづつコピペします。