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彰の介の証言ミラーサイト

 元ブログ「彰の介の証言 」から、新平等主義シリーズをコピペしています。保守論者の新自由主義者の思考過程を想像してみました。一見全くの正論っぽいのですが、何となく勘違いされているような気がします。



前回、新平等主義とイデオロギーの関係を考えてみました。新平等主義は一見すると左翼的思想に親和性が高そうですが、現実には右系保守主義にも親和性が高いと言えます。それは、新自由主義に「国家観」が欠如しているためではないかと私は考えています。日本人が日本人として守っていくべき慣習や制度を、新自由主義は自らの活動の障壁と考えることが多く、それが保守主義と相容れないというわけです。


ただ、右系保守主義と、左系の方々が、新平等主義の旗の元に共闘を組めるかと言えば、もちろんそんなことは無理なわけです。左系の方々も、労働者意識の部分では新平等主義的なのでしょうが、こと「国家観」なる言葉をキーワードとして語り始めると、急速に右系の方々との親和性が薄れていくような気もします。「国」というものを意識することを嫌うのが左翼であって、私が新自由主義の行き着く先とした「地球国家」というものを想定しているのは、むしろ左翼でしょう。それは、人種もない、格差もない、国境もない、社会主義が世界に拡大することによって生まれる世界であり、新自由主義で言う「地球国家」とは別物ということになりそうです。


ちなみに新自由主義の行き着く先は、優秀な人たちがのびのびと活躍出来る統一のルールの下に地球が一つになるという意味において「地球国家」なわけですが、それは想像するのもおぞましい、超格差社会になるのではないのでしょう。ごくごく一部の、優秀で能力があって努力できる人々が悠々自適の生活を送り、残りの方々は奴隷生活に近くなるのでしょう。優秀で能力があって努力できるごくごく一部の人にとってはパラダイスというわけです。ただし、富が世襲されるわけではありませんから、父が富豪でも、子どもが優秀でなければ、貧民になるということで、本当にパラダイスかどうかはわかりません。能力が全ての世界です。


さて、それでは、新自由主義者のイデオロギーはどうなっているのでしょうか。私が何度も書いているように、新自由主義者は、「優秀で能力があって努力できる人」という括りになり、おそらくイデオロギーとしては、右から中道左派まで広く含んでいるものと思われます。さすがにいくら優秀な人材でも、バリバリの左の方々が賛同する思想ではないと思いますが、要するに、新自由主義とイデオロギーの左右とは、あまり無関係ない可能性があります。

ただ前回も書いたとおり、保守系の方々が、新自由主義と新平等主義的な考え方の真っ二つになっていることは考察する必要がありそうです。


そんな真っ二つになっている理由の一つとしては、私が新自由主義の行き着く先としている「地球国家」というものが、今のところ荒唐無稽な話であって、普通に考えるレベルでは国家無き世界を想像することはないため、「国家観」なるキーワードを想定できる人とできない人がいる、ということはあるかもしれません。

しかし、新自由主義者が国家観を想定できないとしても、国家というものを保守していくためには、「優秀で能力があって努力できる人がこの国を引っ張っていくことこそ重要」、と考えているのであれば、むしろ無意識ではあっても国家観は十分意識されていると言えます。つまり新自由主義と新平等主義的な考え方とは、ともに日本を良くしようという「国家観」はおそらく共通しているにもかかわらず、国家の有り様をどう守り、どう変革していくのかというプロセスと未来像に違いがあると言えそうです。


現在の日本で言えば、長いデフレ不況の中で、どうやって国を持ち直していけばよいのかと考えた時、過去記事にも書いてきたとおり、勤勉でまじめな日本人は「苦しみに耐え、努力して、頑張ろう」的な発想になる習性があります。その中ではごく自然に、新自由主義的な政策、すなわち規制緩和や、民営化など、競争を激化させて活路を見いだそうとする政策が必要だと考えてしまいます。そして、それに抵抗しようとすれば、「一部の国民の既得権益を守り、国家としての成長を妨げること」と理解されるか、「このような不況下で、改革もせず、何もしなくていいのか」と思われてしまうのでしょう。


その流れで、新自由主義者は、「この国を成長させるため」には、守られてぬくぬくと生きている人たちを競争にさらせばいいと考え、そして、やる気のある、実力のある人が自由にその力を発揮できるように規制緩和するべきだと考えることになります。既得権益の中でぬくぬくと生きてきた人も、生きていくためには競争世界の中で頑張るしかないわけですから、そんな人たちも徐々に「この国を成長させる戦士」になって、国民をあげて国を成長させることが出来るということになります。そしていずれ、国民全員が国を成長させ、国民全員が成功者ということになるのでしょう・・・・・。


国がピンチの時は、国民総出で頑張らなくてはならない、一部の人が頑張らなくてもすむような政策は改めなくてはならない、頑張らないやつは国民ではない・・・・、右系保守主義の新自由主義者が、この国を保守するために考えている思考とプロセスは、こんな感じかもしれません。一見全くの正論で、問題がないようにも見えますが、新自由主義を批判する立場である私から言わせれば、いくつかの誤りがあることを指摘しなくてはなりません。


誤りの一つは、過去記事やその表題にもしたとおり、努力したり、頑張ったりできない「バカ(=ほぼ一般人、あなたや私)」がたくさんいて、国民全員が成功者になるということはあり得ないということです。特にデフレ下というのを考えれば、敗者が低賃金で働かざるを得なくなる二極化、「格差社会」になるだけのことです。成功するのは、新自由主義者のような、優秀で能力があって努力できる一部の国民だけです。しかも、デフレのおかげで、低賃金で人が雇えますからウホウホと言ってもいいかもしれません。しかも、それを国としての成功とするのは問題があるでしょう。国ための改革ではなく、新自由主義者がもうけるための改革になってしまうわけです。


もう一つの誤りは、既得権益や、保護されてきた分野は、ただただ理由もなく守られてきたものだけではないということです。経済の効率性だけで切り捨ててしまってはまずいからこそ、守られてきた分野もあるでしょう。いざという時に、技術を持った人が日本からいなくなっていた・・・ということが大問題となる場合があるわけです。「世界との競争に勝てない者は、土俵から去れ」と、どこかで叫んでいた方もおられますが、日本という国が、中身のない国になってしまうことの危機感はないのでしょうか。いや、国民全員が成功者という錯覚からは、そんな危うい日本の未来像を考えることが残念ながら出来ないのでしょう。

しかし、それでもなお、私が誤りとした部分に納得がいかない方もいるでしょう。それは、おそらく、新自由主義が、目標の対象を勘違いしているからではないかと思いますが、そのあたりは、また次回ということで。ちなみに新平等主義の目標の対象としているのは、「国家」と考えてもいいのかもしれません。

 元ブログ「彰の介の証言 」から、新平等主義シリーズをコピペしています。新自由主義、新平等主義とイデオロギーの関係について総論的に語ってみました。





 新自由主義と、新平等主義の関係を前回書きました。現在高福祉国家や社会民主主義的な政権は存在しますが、純粋な意味での社会主義的国家は歴史上否定されたと考えられますから、新平等主義の目指す社会がソ連のような国家ではないことを再度断っておかなければなりません。あくまで、自由主義市場経済において、より積極的に規制を廃止し国家の役割を小さくしようとするのが新自由主義的な方向であり、それにブレーキをかけるのが新平等主義というわけです。



 過去に書いてきたとおり、新自由主義的な考え方の基礎部分は、社会通念上当たり前の方向性であるため、ぼーっとしていると、自然に新自由主義的な方向に流れていくことになります。あるいは、新自由主義的な発想に元々悪意はないため、そういう方向に流れてしまっても、普通間違っているとは気付かないかもしれません。したがって、概念としてそれにブレーキをかける方向性である新平等主義という概念をつくり出す必要があると考え、ここまで書き進めてきました。


 さて、こういう政治の話をしていくうえでは、イデオロギーとの関係が欠かせません。しかし、この新自由主義、新平等主義の関係を、従来のイデオロギーである、右・左、保守・革新で語ろうとすると、非常に不思議な関係が浮かび上がってきます。


 新平等主義は方向性として突き詰めていくと社会主義的な方向に向かうことになります。したがって、当然のことながらいわゆる従来の左翼的な考え方に親和性が高いと考えられます。例えば、新自由主義的政策が推し進められれば、格差社会をうむことになり、労働者は困窮してしまいます。したがって、労働者の権利を守ろうとする動きが出てくるわけですが、これはまさに典型的な左翼的活動です。そういう意味では、新平等主義と左翼的考えは同じ方向性ということになり、一見すると、新平等主義=左と言ってもいいのではないかと感じてしまいます。


 ところが、一方でこの新平等主義は、右翼的な考え方にもかなりの親和性を持っているところが不思議なところです。前回、新平等主義を「格差を最小限に抑えるために、過去社会が構築してきた制度や概念をできるだけ守っていこうとすることを旨とする主義主張」と定義しましたが、これは左翼的革新的な考え方ではなく、まさに右系保守主義の定義に近いものです。過去2000年?にのぼる日本の歴史の中で培われた、文化や慣習、宗教観に裏打ちされた、日本という国家、あるいは国家観というものを保守するというのが保守主義ということになりますが、そんな日本独自の国家観による制度や慣習を、新自由主義は自分たちの活動の障壁であると捉え、崩していこうとしています。したがって、そういう意味での新自由主義的な考え方や行動に対し、保守主義は当然ながら反発することになるわけです。


 しかし、もう一つややこしいことがあります。右系保守主義者の全てが、新自由主義に反発しているかといえばそうではありません。それどころか、新自由主義者の多くは右翼的な考え方の持ち主が多いのが事実です。アメリカの新自由主義といえば、キリスト教原理主義的な保守主義と一体となっているといいます。日本でも規制緩和や自由貿易を唱えている人といえば、右翼色の強い方が多いのが現実です。つまり、新自由主義をめぐっては、保守系の方々が真っ二つになっているわけです。


 過去に、新自由主義と新平等主義はあくまで相対的な考え方であると書いてきましたが、私自身は、新自由主義に懐疑的な立場から新平等主義を唱えています。そんな立場からいうと、保守主義から新自由主義の考え方がうまれる理屈がわかりません。なぜなら、新自由主義がめざす目標が、地球国家的な世界統一ルールの国境の無い世界だとすれば、そこには国家観が欠如してしまっているからです。日本国としての国家観を大事にしようとしている人が、日本国という国家の枠組みを消し去ろうとしていることに気付かないというのは不思議でなりません。

私は、新自由主義の最大の問題点を、国家観の欠如だと考えています。

そういう意味において、おそらく、保守系の新自由主義者の方々は、大きな勘違いをされているのではないかと思うのですが、その勘違いや錯覚というのを、今後徐々に書き進めたいと思っています。実際には、過去記事に散りばめてきたことばかりのなのですが・・・。

元ブログ「彰の介の証言 」から、新平等主義シリーズをコピペしています。新自由主義の真逆のベクトルを持つ考え方としての新平等主義というのを定義してみました。




 新平等主義シリーズを書き続けてきたのですが、要するに、「新自由主義者」とはどういう集団なのか、そしてどのような考え方を持った集団なのかを述べたに過ぎなかったような気がします。そして、そもそも私が提唱?している「新平等主義」なるものの定義というか、いかなる考え方なのかというものを全く書いてきませんでした。それどころか、よく考えてみれば、「新自由主義」についても全く定義づけをしていませんでした。


 私が考えている「新自由主義」と「新平等主義」は今のところ次のようになります。学問的ではなく、素人的に私が考えている骨格部分です。(新自由主義についてはある程度専門家が定義付けしていると思われるため、正式な定義等は専門書を参考にして下さい。)


 「新自由主義」とは・・・、全ての個人が能力的に平等であることを前提とし(或は、個人の能力差を不平等であるとは認識しない)、努力したものが報われ、努力しないものは自己責任とする社会を実現すべく、固定化した制度や概念を出来るだけ排除していくことを旨とする主義主張。


 一方「新平等主義」とは・・・、全ての個人は能力的に不平等であるため、自由競争下では格差が生じる。この格差を最小限に抑えるために、過去社会が構築してきた制度や概念をできるだけ守っていこうとすることを旨とする主義主張。


 新平等主義は、平等といいつつ、個人の能力的不平等を前提としているところがミソになります。一方、新自由主義は、逆に人間一人一人を平等と考えているのが前提です。さて、それぞれの主義主張の行き着く先、すなわち目標とする社会とはどういったものなのでしょうか。


 実は、新平等主義は、出来るだけ個人的能力差による格差をなくそうということですから、行き着く先は広い意味で言えば「社会主義」ということになります。働いても、働かなくても給料は同じという世界です。しかし、ソ連をはじめとする社会主義国が、現実的ではないということを歴史は示しました。私自身も、社会主義を理想として新平等主義を書き始めたわけではありません。またいわゆる高福祉国家を想定しているわけでもありません。新平等主義とは、その理想とする社会そのものをいっているわけではなく、あくまで、新自由主義の方向とは全く逆のベクトルを持つ方向性としての主義主張ということになると思います。


 それでは、新自由主義が理想としている、行き着く先の社会とはどのようなものなのでしょうか。実は、新自由主義の徹底が達成された新自由主義的国家は現在存在していないと考えられます。最も近いといえばアメリカということになるでしょうか。出来るだけ国家の関わりを無くし、国民は自己責任において(例えば銃を持って)生きていく社会ですから、そういうことになります。しかし、アメリカ合衆国政府というものがしっかり規制すべきは規制し、守ものは守っています。全てのルールが取り払われて、全てを自己責任にしているわけではありませんから、完全な新自由主義的国家とはいえません。


 新自由主義の行き着く先の国家が実現されていないというのは、実は当然です。それは、新自由主義を突き詰めていくと明らかに矛盾が生じるからです。新自由主義は、出来るだけルールや規制を撤廃していこうということですが、それではルール無用の悪党が跋扈する社会をつくってしまうだけです。性善説的な理想人間ばかりであればルールを撤廃してもいいわけですが、残念ながら平等でフェアーな競争をしようとすれば、当然厳格なルールや、社会の監視が必要ということになり、結局国家権力によるルール化のしくみが必要という矛盾が生じるわけです。そもそも、新自由主義を究極に突き詰めれば、全ての国が統一の憲法(ルール)となる地球国家的なものを想像すれば、それこそが新自由主義の行き着く先の社会かもしれません。それは国家の概念を取り払うことに他なりませんから、国家の概念が無い国家が存在しないのは、当たり前です。


 したがって、新自由主義も、その理想とする社会そのものを言っているわけではなく、出来るだけ規制や障壁を無くして、自由に競争するという方向性としての主義主張ということになります。そして、その180度逆のベクトルが新平等主義というわけです。過去にも、そして現代も、この新自由主義と新平等主義が綱引きを行い、釣り合いをとりながら社会が成り立っていたと思われます。しかし、この新自由主義に対抗する概念は意外に存在していませんでした。それは、新自由主義がある意味社会通念上当たり前の考え方の延長線上にあり、その問題点が抽出しにくかったことにあるのは、過去記事に書いてきたとおりです。


 まずは、中身ではなく、看板たる「新平等主義」という言葉をつくり、新自由主義という偽りの平等感の問題点をはっきりさせる旗印にしたいと思います。その上で、徐々に新平等主義の概念をより広げていこうと考えています。

元ブログ「彰の介の証言 」から、新自由主義批判、新平等主義シリーズをコピペしています。新自由主義者は、一般国民が自分たちと同等に努力できるはずだという大変大きな勘違いをしています。「バカにはバカと言った方がいい」という私の結論をご覧ください。





資本主義経済の中では、常に競争が行われ、それに打ち勝って行かなければなりません。従って、基本的に、この競争に打ち勝っていこうと、「努力すること」は当然のことと認識されています。そして、努力の結果、富を得たとすれば、それは成功した人間という評価を受けます。逆に努力を怠り、サボっているような人間は評価されません。「あんなやつ給料半分でいいのではないか」と思うこともしばしばですが、実はそんな考え方の遥か延長線上が新自由主義であるとうことを前回書きました。



したがって、新自由主義者の多くは、向上心の延長に自らの主義があり、努力できない人間のことは当然自己責任であると認識していますから、特に悪意を持って、自らの主義主張をしているわけでは、おそらくありません。さらに、新自由主義者というのは、それが市場経済における当然の方向性だと考えているわけですから、いちいち、「新自由主義」などという主義主張をしている集団の一員だとは認識していない可能性もあります。



そして、そんな新自由主義者の訴えることといえば、例えば「規制緩和」であり、「民営化」であり、「自由貿易」等です。できるかぎり公の力を削いで、競争を激しくするための政策です。私は、それらの言葉の一つ一つが、漠然と「いいこと」であると認識していましたが、これらの行き着く先が、「格差社会」であると認識を持った時、この主義が間違ってはいないとしても、それを抑え込むための主義主張が必要だと感じるようになりました。それが、この表題たる、「新平等主義」というわけです。むろん「格差社会」以外にも、新自由主義には多くの問題点があり、その方向性には警鐘を鳴らさねばなりません。



現在の日本を考えると、不況やデフレが続き、何となく長く暗い時代が続いています。このような時、どうやってトンネルを抜けるのかと問われれば、「苦しみに耐え、努力して、頑張ろう」的な発想を、まじめで勤勉な日本人はついついしてしまいます。したがって、新自由主義的な、規制を緩和し、競争を激化する政策には、無意識に同調してしまう下地があるわけです。目の前に大きな壁が現れれば、それを乗り越えるよう努力しなければならないとついつい考えてしまうわけです。



しかし、現実には、競争のあとに明るい未来が待っているわけではありません。ただただ、その壁を乗り越えられる者と乗り越えられない者、すなわち勝者と敗者がうまれるに過ぎません。優秀で、やる気があって、努力できる人がそれ相応の力を発揮して勝者となり、壁を乗り越え大きくなっていくことがいいことだとしても、その分多くの没落者をうむのであれば、社会として、国家として、プラスマイナスゼロと言うだけです。つまり個人のレベルで言えば、努力した者が報われる社会かもしれませんが、国家のレベルで言えば、不幸な人を増やすに過ぎないわけです。



結局のところ、新自由主義者たる「優秀で、やる気があって、努力できる人」が、新自由主義的社会、すなわち、より競争が激化する社会を好む理由は、自分が勝者となれる自信があるからです。そして、最大の問題は、新自由主義者が、そんな競争を「平等な競争」だと信じ込んでしまっており、敗者を「自己責任」と切り捨ててしまうことです。なぜ「平等な競争」だと信じ、「自己責任」と切り捨ててしまうかといえば、それは、国民全員が「自分たちと同レベルに努力できるはずだ」と勘違いしているからに他なりません。過去に、くどく書いてきたとおり、この競争は、最初から新自由主義者に有利であり、「平等な競争」ではありません。国民全員が優秀な人たちと同様の努力ができるはずはないのです。おそらく平均的な国民ですら、新自由主義者と比べれば、「バカ」レベルと言って過言ではありません。



国民全員が「自分たちと同レベルに努力できるはずだ」という新自由主義者の勘違いは、競争の先には「国民全員が勝者である」というとんでもない幻想をうんでいます。どう考えても、過去の歴史は「格差社会」をつくりだすに過ぎないのですが、そんな勘違いを少しでも新自由主義者に理解してもらわなければなりません。


そのために私が考えている事は、次の二つを新自由主義者に訴えることです。1つ目は、


新自由主義者は、優秀な能力を持った人間の集団」であるということ、そして2つ目が、



世の中には、新自由主義者が想像も出来ないくらい、バカで努力できない人間がたくさんいる



という、この2つです。ここで言うバカというのは、差別的な意味での底辺の人々を意味しません。あなたであり、私であり、平均的な一般国民のことです。「優秀な能力を持った人間」と「バカで努力が出来ない人間」が混在している以上、「平等な競争」というものは存在せず、そんな中での敗者は「自己責任」と簡単に切り捨てられません。それは国家として、その構成員たる国民を切り捨てることと同義だからです。競争を激化させる政策は、ただただ「優秀な能力を持った人間」が活躍し、「バカで努力が出来ない人間」が没落する「格差社会」をうむに過ぎないわけです。



バカに、「努力すれば報われる」と一見平等主義的な偽善を言うよりも、「バカにバカと言える社会」の方が、よっぽど平等でまともな社会だと私が考える理由は、以上の考察の結果なのです。



むろん、新自由主義も、新平等主義も、相対的な主義主張であることは、この話を始めた時に断った通りです。新自由主義が行きすぎれば格差社会をうみ、新平等主義が行きすぎれば活力のない既得権益の固まりの世界になることはいうまでもありません。しかし、現代の日本で新自由主義を闊歩させることが、日本という国家の幸せにつながるとはとても思えません。



私自身は政治や経済の専門科ではありませんが、現在の日本における問題点を、今後もう少し新平等主義を中心に具体的に書いていきたいと思っています。

元ブログ「彰の介の証言 」から、新自由主義批判、新平等主義シリーズをこちらにコピペしています。新自由主義というのは一見極端な考え方のようですが、そのスタートは極めて普通だと考えており、従って、そこに”悪意はない”というのが私の立場です。


考察を進めるますと、完成した新自由主義は悪意に満ちあふれてくるようですが(いずれブログ記事にしたいと考えています)、そのスタートは必然だと考えています。



「努力した者が報われる社会」という言葉は美しいのですが、現実には人間個々それぞれに能力には差があるのですから、努力すれば全ての目標がクリアできるわけではありません。そんな、夢のない社会をプロ野球の世界で考えてみましたが、一般社会も、この厳しい、努力しない者が没落する、自己責任の世界にしてしまおうと考えているのが、新自由主義者の方々です。なぜそんな世界を志向するのかと言えば、新自由主義者の方々がそもそも「優秀な能力を持った人間の集団」であるがゆえ、個々の能力の差なるものの理解が出来ないからだろう・・・ということを前回言い放ってみました。



「優秀な能力を持った人間の集団」ゆえに、その力を十分に発揮したいと考えれば、規制やルール,或は慣習などというものが邪魔に感じることもあるでしょう。究極的に言ってしまえば、身分制度のある時代を考えればわかりやすいでしょうか。生まれ持った身分によって将来の役割が決まってしまうのですから、そんな制度は廃止すべしと考えるのが、新自由主義ということになります。身分制度は、新自由主義者でなくても廃止するべきと考えるかもしれませんが、その方向性はまさに「新自由主義的」以外の何ものでもありません。



さて、前回の最後に、そんな新自由主義者が、そもそも悪意を持って自身の考えを主張しているのかどうかという問題提起をしてみました。すなわち、「努力した者が報われる社会」などの言葉を掲げてごまかしながら、能力のない人を、「平等な社会」であることを理由に同じ土俵に上げて、利益を独占しようとするようなことを行っているのでしょうか。



私の結論は、基本的に””です。

例えば、職場を思い浮かべて下さい。職場の中には、どうしてあれほど仕事が出来ないのに出世しているのだろう・・・と思える人はいませんか。上司でなくても、全く仕事がこなせないのに、自分と同じ給料をもらっている同僚とか。



普段から、我々は、自分の仕事をちゃんと評価してほしい、仕事が出来ない人間にはそれなりの低い評価を与えてやってほしいと考えています。私も普段から非常にそれを強く感じています。仕事に自信がつくと、あいつと同じ給料なんてあり得ない、自分は倍もらってもおかしくないと考えることもしばしばです。それはおそらく、普通の人間であれば、普通に考えることだと感じます。しかも、それが特に間違ったこととも思われません。そうでなくては、まさに「努力しても報われない」ことになり、やる気や向上心の欠如につながってしまいます。それは、特に特別な主義でも主張でもありません。普通の人間の普通の考え方です。



職場たる企業にしてみればどうでしょうか。当然企業にとって、能力のある者には責任ある仕事を与え、より利益を上げてもらわなくてはなりません。そのためにも、正当な評価をすることは欠かせません。能力のある者が出世し、能力のある者がたくさん給料をもらう、そんな企業でなければ活力が無くなってしまいます。企業の利益を考えれば、当然のことで、これを誤れば倒産への道を歩むことになってしまいます。



このような、能力のある者が能力のない者と同じようには扱われたくないという、普通の人間の普通の思いや、企業がある程度能力に基づいて人事を行うことなどは、「能力主義」という意味において、「新自由主義的な考え方」であると言いたいわけですが、しかしこの程度のことであれば、現代社会においては、おおよそ受け入れられているものと考えることが出来ます。そしてある意味、それはあまりに当たり前のことであるため、「努力した者が報われる社会」として、社会通念上当然の考え方、方向性とされているわけです。



だとすれば、新自由主義とは一体どのような主義を言うのでしょうか。私は、能力のある者が能力のない者と同じようには扱われたくない、という普通の人間の普通の思いを究極的に高めてしまったものが、あるいはそんな思いの遥か延長線上の考え方が、新自由主義だと解釈しています。



つまり問題は、その「程度」、「線引き」にあると考えます。



新自由主義者の考える世界は、能力のある者が、23倍どころか、10倍、100倍と給料をもらえばいいという世界です。能力のない者は、2分の13分の1、いやいや、派遣社員で、いつでも解雇ができて、最低賃金で働いてもらえばいいとうことになります。そして、そんな社会とならないような制度や仕組みを「規制」と称して壊そうとします。これがプロ野球の世界であれば許されることなのかもしれませんが、一般社会となると大きな歪みを生みます。いわゆる「格差社会」です。



その上で、「新自由主義者は悪意を持って自分たちの主義を主張しているのか」という問いに関する私の答えが“否“である理由は、基本的に、新自由主義者にとっても(一般市民にとっても)、そもそもの考え方の根底部分に関して、社会通念上の特に問題とならない事柄だと信じてしまっているからです。もちろんそこには、悪意などないと考えていいでしょう。自分たちの利益のためだけに、利己的な自分たちの主張を繰り広げているとは、おそらく気付いていないのです。「おい、おまえ達も儲かるようにしっかり働けよ!!」程度のエール的な思いの延長に新自由主義が存在するのですから、そのスタートに悪意が生じる必然性はありません。



格差社会に焦点を当てて、派遣切りをされた人たちを考えみれば、そこには非情な世界が広がっていることが何となく理解できるかもしれませんが、「あの上司は仕事が出来ないなあ」と感じていることの延長線上に「格差社会」があるとは、誰も思っていません。新自由主義の世界において、そんな上司は、首を切られて失業となりますが、上司のことをバカにしていたあなたにも、魔の手が忍び寄っているかもしれませんよ・・・・。実は私かも・・・・。



ということで、やっと「バカにはバカと言った方がいい」という話をしていきましょう。

新自由主義批判「新平等主義シリーズ」を元ブログ「彰の介の証言 」からコピペしています。新自由主義者とはどんなベースを持った人々なのか、そんな話を続けていきます。



身分制度がなくなったらその社会は平等か?という問いに対して、基本的に、社会通念上は、平等ということになっています。ただ別の側面として、もともと能力の高い人間(例えば“頭がいい人間”)にとって優位となる社会とも言え、身分制度という血統から、能力という先天的なもので決定されてしまう階級社会に変わるだけということを前回書いてみました。



 これに対して、「そんなことを言ったら夢も希望もない」と普通の方ならそう思われるでしょう。人間は、「夢や希望」に向かって「努力すること」がすばらしいことであり、後天的に獲得する「努力して得た能力や知識、技術」にこそ意味があると考えられているからです。今のうちに言い訳しておきますが、私も努力することを否定したいがためにこの「新平等主義」を語り始めたわけではありません。



 ただ、もう少し「夢も希望もない」話を続けさせて下さい。


 俗に、「夢を追い続ければ、努力を続ければ、夢や目標は必ず叶う」などと言われます。しかし、特に、実力や結果が全ての世界では、そうそう、うまくいかないのは当然です。



 完全な実力の世界である、プロ野球などを例に挙げれば明かです。


 イチローがコマーシャルで「必ず夢は叶う」みたいなことを言っていましたが、イチローのような活躍は、夢を追い続け、いくら努力をしても、ほとんどの人が叶いません。なにしろ日本人の中でもっとも野球が上手なのがイチローなのですから、その彼ほどの活躍はそもそも無理というものです。



 そもそもと言えば、プロ野球の選手になったとしても、レギュラーを取れるような選手はほんの一握りです。いやいや、プロ野球の選手になるのも、世間からみれば、超野球の上手なごくごく一部の人だけです。いやいや、甲子園に出られるような人もそうそういません。いやいや、各高校の野球部でベンチ入りすることだって、たやすいことではありません。



 そんなことを考えると、残念ながら、努力だけで、夢が叶うものではないわけです。いくら夢を持っても、プロ野球選手になるという夢は、死ぬほどの努力をした上で、宝くじが当たるくらいの確率でしか叶わないわけです。



 問題は、「野球の世界でイチローのような活躍をする」という夢を持った人間全てが、野球を始める、そのスタートラインに立った時、皆が同じところからスタートできると言えるかどうかです。すなわち、同じ夢を持った人間は、夢を叶えるということに対して平等なのかどうかということですが、これは全く平等ではないと言わざるを得ません。



 同じ夢を持ったとしても、人それぞれ、体格も違えば、運動能力も違います。プロ野球選手なら50m6秒ほどで走り、陸上の投擲選手顔負けの遠投ができる人がほとんどです。身長160cmそこそこの私など、それだけで夢破れるというものです。元々の能力のない者が、努力だけで勝ち残れるような世界ではありません。一般人からみれば超人的な肉体を持つ人間の中で、さらに、苦しい練習にも耐え、技術を磨いた、努力した者が報われる」世界、それが、プロ野球の世界と言えるかもしれません。



 十分に、夢も希望もない話をしたところで、本題に戻りましょう。


 私は、この「新平等主義」の中で、「新自由主義」の問題点を洗い出そうとしているわけですが、そんな、新自由主義者の志向する社会は、このプロ野球の世界そのものと考えることができます。実力、能力、結果が全ての世界であり、苦しい練習にも耐え抜き、技術を磨いた、まさに「努力した者が報われる社会」を目指していると言えます。



 「新自由主義」において、「努力した者が報われる社会」を目標としていることはともかく、私が夢も希望もなく書き綴った、そもそもの平等ではない点、つまり、プロ野球の世界でいうところの「体格や体力の差」すなわち「個々の能力の差」について、新自由主義者はどのように考えているのでしょうか。なぜなら、新自由主義者自身の能力が劣っていたら、努力してもぜんぜん報われないことになってしまい、自らの主義によって自らの夢が破れてしまうことになるのですから。


そんな質問を、私は新自由主義者にしたことはないので、実際どのような問答になるかわかりませんが、おそらく答えはわかっています。「個々の能力に差があること」について、新自由主義者であれば、



「その差を超えられるように努力するべきである」

「そこまで努力できなければ自己責任である」



等と答えるでしょう。皆様は、こう言われたらどのようにお思いになるでしょうか。いろいろとご意見はあるかもしれませんが、普通の方であれば、「努力しても超えられない差はあるのではないか」と思いつつも、「死ぬほどの努力はできないかも・・・」「努力できないことも問題だなあ・・・」と新自由主義者の意見に何となく同調してしまうかもしれません。



 しかし、上記の新自由主義者の答えにひるむ必要も卑下する必要も全くありません。


 努力しても超えられない差があるにも関わらず、新自由主義者はなぜ「努力」を強調するのか・・・、その答えはあまりにも明かです。それは、新自由主義者が、



優秀な能力を持った人間の集団



だからに他なりません。最初から足も速く、肩も強く、運動神経がずば抜けていい人間の集団だから、努力した者が報われる社会を作ろうというのです。つまり努力だけでは超えられない、元々の「個々の差」が理解できないのです。結果の差は、努力の差としか感じられないのでしょう。



 前回、「努力する者が報われる社会」という言葉が大変曲者と書いたのは、上記の理由ですが、そんな言葉を新自由主義者の方々は悪意を持って使っているのかどうかについて、書き進めていきます。


コピペだけすればいいのに、忙しさにかまけて、それすらしていませんでした。元ブログ「彰の介の証言 」から、新自由主義批判の「新平等主義シリーズ」を続けていきます。


平等ということについて、例を挙げてみます。


 例えば、江戸時代の日本(あくまで一般論)。将軍家や藩主の子として生まれれば、とくに努力しなくとも特権階級となります。お殿様ではなくとも、江戸時代の身分制度で言えば、武士に生まれれば勝ち組、すなわち搾取する側であり、百姓に生まれれば負け組すなわち搾取される側となります。武士に生まれれば、幕府や藩の運営を担うことになるのでしょうが、その才能が絶対に備わっている保証はありません。ただただ血統が全てということになり、身分を超えて出世するということは、基本的にありえません。いくら努力しても無駄ということになります。



 無論、江戸時代の統治に関して、血統が無視できないことは言うまでもありませんが、基本的に、生まれながらに努力無しにその人の未来の階級、役割が決まる状態を、平等とは言いません。身分制度がなくなり、誰もが努力、能力相応の役割を与えられる社会を平等というのでしょう。

では、身分制度がなくなり、すなわち、人間が血統で認められることが無くなり、身分的に平等な社会になったとしましょう。そして、その社会において、全ての人が本当の意味で平等だと言えるのでしょうか。



 そんな状況を、現代社会において一般に平等と呼んでいるわけですが、新自由主義が提唱している、ルールのほとんど無い、市場原理に基づいた社会に人々が放り込まれると、実は、決して平等とは言えないというのが、私の考える新平等主義の考え方です。なぜならば、単純に言えば、その人の能力によって与えられる役割が決まるのですから、生まれ持って高い能力を持っている人間が明らかに優位だからです。



 高い能力、例えば、「頭がいい」という能力。これは本人の努力で獲得したものではなく、生まれながらに持っていたものです。両親から遺伝的に受け継いだもの、或は突然変異的に獲得したものですから、本人の努力とは関係ありません。



 「頭がいい」、という能力について、それは努力して勉強することで上昇するのではないかと考える方もいるかもしれません。努力をして、後天的に知識や問題解決能力を獲得したのであれば、それは先天的な獲得ではないのではないかということですね。



 しかしこう言っては何ですが、残念ながら、生まれ持った「頭のよさ」というのは差があるのが現実です。これはどなたも感じることでしょう。



 もう一つ言うと、努力して、一生懸命勉強して知識や問題解決能力を獲得するというのは確かに後天的な付け足しではあるのですが、残念ながら、「努力できる」という能力も、ある程度生まれながらに差があると言わざるをえません。したがって、もともと「頭がいい」という能力を持っていることと、さらに、「努力できる」という能力を先天的に持っている人間こそ、生まれながらにして圧倒的に優位な状況に立つことができるのが現代社会であり、さらに新自由主義が唱える社会であれば、それはより鮮明にそれが際立つことになるのです。


要するに、身分制度のある時代から、身分制度の無い時代に変わったとしても、それは、純粋な血統から、「能力」という結局先天的なもので決定する階級社会になっただけだと言いたいわけです。



 しかしそれはあまりにも無味乾燥的な考え方であるが故に、現代社会ではそんな明らかな事実を何となく覆い隠し、「努力する者が報われる社会」であるということ社会通念とし、それこそが人間本来の姿なのだと信じ込まされています。努力することはすばらしいこと、美しいこととされています。



 しかし、この「努力する者が報われる社会」という言葉が大変曲者で、実はこれを利用しているのが新自由主義者なのです。


 おそらく、本日の話の展開では、「それを言っちゃあ、夢も希望もないじゃないか」と思われた方がほとんどだと思いますので、夢を崩さないように、徐々に話を進めたいと思います。


前回、元ブログ「彰の介の証言 」とは順番を変えて、反新自由主義主張、新平等主義のまとめを掲載しました。今後は順番に、元記事を若干加筆訂正しながら、コピペしていきます。



一応、評論家っぽく(私は評論家でではない)、書店に並ぶ本のように逆説的で過激なタイトルをつけてみましたが、一体何を語ろうとしているのか、或は、これからの話の展開の想像がつくでしょうか。



平等主義というのですから、一応平等について語ろうとしていることはおわかりかと思いますが、バカに向かって「バカ」と言ったら、平等も何も、むしろ差別的で倫理上の問題がありますね。うがった見方に慣れている方ですと、誤った平等論を唱えるバカには、「バカ」と言ってやった方がいい・・・なんて、考えていただけるかもしれませんが、残念ながらそんな話でもありません。タイトルそのままに、頭の悪い人や、能力のない人に、「バカ」と言えることが平等だと言いたいのです。インターネットの片隅で、おびえながら独りごちてきた私にしては、刺激的ですね。



もちろん世の中、一つの意見が絶対的に正しいなんてことはあり得ません。私が言おうとしていることも、極めて相対的です。ある状況下で、ある時間のみ、方向性として私の言う「新平等主義」は成り立つのでしょうが、それが行きすぎれば訂正しなくてはなりません。或は、常に私の言う「新平等主義」は正しいのですが、常に誤っているとも言えます。結局、バランスの問題、線引きの問題であり、世の中が、私の考えている事と明らかに逆に動いている時は、大いに成立する考え方だと確信しています。



余計に何が言いたいかわからなくしたところで、少しずつ話をしていきましょう。私が何を考えているかと言えば、それは、「新自由主義」ってなんだろう?と思ったことから始まっています。



漠然としたイメージとして、この新自由主義という言葉は、なんか怖そう・・と感じていました。勝ち組とか負け組なんていうキーワードで話されることもあり、社会を二分化してしまう思想だとすれば、あまりいい感じはしません。或は、格差社会が叫ばれる中、この新自由主義が格差をうんでいると言います。まさに勝ち組、負け組ですね。



しかし、その新自由主義なるものを紐解いてみると、例えばWikipediaをみてみると、自由貿易、規制緩和、民営化などを推し進める考え方でもあるようです。今まで、なんとなく、いいイメージを持ってきた、これらのキーワードが、格差社会をうんでいるとしたら、それこそ頭の悪い「バカ」な私には、むむむ??となって、全く理解不能となってしまいました。



そんな頭の悪い私ですが、少しずつ新自由主義を読み解いていって、その問題点と現代社会の矛盾を考えていったのが今回の「新平等主義」です。その一端を今回予告的にお教えします。(新自由主義のキーワードを『』でくくってみました。)



新自由主義の一側面をキーワードでいいますと、『自由競争』という言葉が挙げられます。既得権益に守られてきた社会を、『規制緩和』や『民営化』によって、誰もが自由に戦える場に変えます。そして、アイデアをぶつけ合い、懸命に働いて、勝ち抜いたものが勝者となる、まさ『努力したものが報われる』社会、それが新自由主義の目指す社会の一つと言えるでしょう。



どうですか、新自由主義社会はバラ色でしょう。アイデアを出せず、働く努力を怠ったものが敗者となる、まさに『自己責任』の社会です。全く間違っていません。人間の人間としての本能そのものであり、この考え方が否定されたら努力も何もしなくなります。



しかしどうなんでしょう。



世の中には、アイデアなんて出せない「バカ」や、努力できない「バカ」がたくさんいませんか。一人一人の人間は、全く能力が違うのに、同じ土俵に上げられ相撲をとらされたら、「バカ」が負けるのは当たり前ではありませんか。もしかして、新自由主義者は、自分が勝つということをわかっていて、「バカ」な人間たちを同じ土俵に上げようとしているだけではありませんか。



「自由」や「能力主義」のもとの「平等」は平等のようで平等ではなく、「バカ」には、はっきり “おまえは「バカ」だから” と言ってあげて、競争を和らげる方向で規制をかけてあげた方が、すなわち、ある程度のハンデをつけた方が、真の平等と言えるのではないでしょうか。これこそが、今回私が提唱する「新平等主義」なのです。



とまあ、こんな予告を出してしまうと、「そんな話ならよっぽど新自由主義の方がまともだ・・・」と言われそうな気もしますが、これから数回にわたって(たぶん)、この「新平等主義」をお話ししていこうと思います。少しは世の中の見方が変わるのではないかと思っておりますが、無理かな?。

 元ブログ「彰の介の証言 」で書いた、新平等主義シリーズをちょっとずつ加筆訂正しながら、こちらにコピペします。

 新平等主義という言葉は、新自由主義の全く反対のベクトルを持つ言葉として私が造語しました。若干、左っぽい言葉ですが、新平等主義的国家観という言葉も使うことにより、右も左もない??真ん中へ修正しております。

 元ブログでは、順々に話を進めましたが、こちらでは、最初に「まとめ」をコピペしておきます。


 

 

・・・・・・新自由主義とは(私の個人的な考え方です)・・・、人間生まれたからには、一人の人間として全員平等であるというところがスタートになっています。ですから、規制を緩和・撤廃し、ハンデ無しで自由に競争することを、平等な、フェアーな競争であると考えています。したがって、その競争による勝ち負けは、努力の差であると考えます。したがって、努力した者が報われる社会とは、競争に勝った者のための社会という意味であり、努力を怠った敗者は、自己責任として、落ちこぼれても仕方がないということになります。さらに、そんな自己責任で落ちこぼれたような者を助ける必要もないと考えています。落ちこぼれの救済は、フェアーな競争ではないばかりか甘やかしであり、落ちこぼれ候補生をさらに努力しない人間にしてしまう可能性があり、国策としてもするべきではない・・・と考えている節もあります。



新平等主義とは、そんな新自由主義とは全く180度逆のベクトルを持つ考え方であり、私の造語です。人間は、一人一人全く能力が違うため、新自由主義者の考えるハンデ無しの自由競争はむしろ不平等だと考えます。実は、日本の社会には、法律はもちろんのこと、慣習や伝統、国民性に至るまで、この不平等をできるだけ少なくする仕組みが存在しています。そんな仕組みをできるだけ守り、新自由主義的な考え方による、社会の二極化(勝ち組と負け組)をできるだけ避け、国家全体としての幸福を追求しようとするのが新平等主義となります。



新自由主義は、現在の日本のような不況下において、それを打開する方法を「競争の激化」と考えています。努力し勝ち残った者が、日本を引っ張っていけばいいと考えているようですし、或は、競争の激化によって、国民全員が努力をすれば、国民全員が勝者となるという幻想を持っているようです。しかし現実には、必ず敗者を生むことになります。新自由主義では、この敗者を容赦なく切り捨て、救済すること全く考えていませんから、敗者が同じ国民であることを忘れて、この幻想、すなわち一部の勝者のみの幸福を国家の幸福と考えてしまっています。しかし、国民を切り捨てることなど全く国家としての幸福ではありません。新自由主義は、個人の幸福と、国家の幸福を明らかに混同しており、そういう意味での国家観というものが存在していないのです。敗者をできるだけうまない(もちろん国民を切り捨てない)、もし敗者を生んでしまったら当然手をさしのべる、そんな国家の有り様を守っていこうとすることを、新平等主義的国家観と名付けました。



ただ、新自由主義者が、利己的な理由から新自由主義なのかと言えば、それは違うと考えています。そこには必然的な理由が存在していると考えました。なぜ、新自由主義者が、一人一人の人間には能力差があるにもかかわらず、全ての人間を同列に扱おうとするのかと言えば、それは新自由主義者が「優秀で能力があって努力できる人間だから」であると考察しました。悪く言えば、新自由主義者は、優秀であるからこそ、激しい競争に打ち勝っていける自信があり、自分が負け組になるとは考えられないのでしょう。或は負け組の気持ちを推察することができないのでしょう。よく言えば、自分たちより能力が劣る人たちでさえ、優秀な自分たちと同等の努力ができるはずだと(悪気はなく、エールのつもりで・・・)考えてしまうのでしょう。したがって、そんな考えから、全員が努力すれば、全員が勝者という錯覚をしていますし、努力できないものは、当然自己責任という結論になってしまうと考えられます。



また、国民が、知らず知らずに新自由主義的な考え方を受け入れてしまう必然性もあります。社会通念上、「夢に向かって努力すること」は美しいこと、すばらしいこととされています。また、仕事ができる人と、できない人が、同じ給料だったら、それを不公平と考えるのが普通です。したがって、新自由主義者の言う、「努力しろ、競争に打ち勝て!」という言葉に対して、誤っているという認識は基本的に生まれませんし、反対側に、敗者が生まれるという認識もありません。個人の目標ですから、敗者に対するいたわりの心など全く持つ必要もありません。したがって、国家全体としての幸福とは、「敗者をできるだけ少なくし、敗者に手をさしのべること」ではなく、本来個人の目標である、「競争に打ち勝つこと」にすり替わってしまう必然性があると考えられます。



これらの必然性による錯覚があるからこそ、新平等主義、新平等主義的国家観を訴えねばなりません。特に現在、優秀で能力があって努力できるすばらしいリーダー達が、国民に鞭をふるって「努力しろ!!」と叫ぼうとしています。でもそれは、優秀で能力があって努力できるほんの一部の人間が幸福になるだけのことであって、国民全体の幸福ではないということを知らしめねばならないのです。

 インターネットの片隅で独りごちる、「彰の介の証言 」の政治版ミラーサイトをこちらにつくることにしました。昔と今では言っていることが違う?というご指摘を受けそうなので、言い訳までに、こちらに逃げてきたという話もありますが(笑)。以前の認識との違いについては徐々に語っていきます(多分)。


 とりあえず、新自由主義に関する考察シリーズのコピペをしていきます。若干、加筆訂正いたします。

 原文の駄文でよければ、本サイトへ飛んで下さい。少しずつ作業しますので、遅々として進まず、途中でばったり止まる・・・ということになりそうですが。