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彰の介の証言ミラーサイト

元ブログ「彰の介の証言」から記事を転載しています。お経って読む意味あるのかな?と思ったのが始まりですが、最近、まあこれでいいのかなと悟りを開きつつある私です。宗教者というある種のエリートのレベルまで、全ての人を引き上げるというのは無理な話で、それを実行するのはかなり危険なことであると感じています。


 

 以前にも記事にしたことがあるのですが、我が家の宗教は、南無阿弥陀仏と唱える仏教の某宗派です。と言っても、いわゆる世間で言うところの、葬式仏教でして、葬式、法事、寺院改修のお布施の話(イラ、イラ、イラ・・・)以外で、特にお寺と関わることはありません。人生の生きる指針が、その宗派の教えかと言われれば、全く無関係としか言いようがありません。

 それもそのはず、そもそも、お寺のお坊さんから、その教えとやらを一度として聞いたことがないのです。しかも、「お経を習いましょう」という会に参加して、お経の読み上げ方?唱え方??歌い方???は教えてもらったのにも関わらず、その時に、教えというものを、これっぽっちも聞かなかったのです。私の場合、南無阿弥陀仏の意味を知ったのも、つい数年前ネットで調べて知ったという有様なのです。

 だいたい、お経というのは、漢文の漢字の音を歌詞にした、歌のような音楽です。普通素人が、漢文の音をただ読み上げたとしても、その意味は全くわかりません。例えば、葬式の時に、その教えたる仏典の漢文を、お坊さんが読み上げたところで、聴いている聴衆には、その教えが注入されるわけでも何でもありません。ただ音楽として聴き、何となく日本人にとっては、いかにも葬式っぽい雰囲気だなあと感じること以外に何もないというのが現実というものです。

 というふうに、その存在意義をいちいち考えて、屁理屈を垂れる私のような人間は意外に少ないのかもしれません。そうでなければ、その教えや文化が何百年も続くのでしょうか。そもそも、その教えというものを、全ての門徒?が理解しなければならないのでしょうか。

 私のような屁理屈屋は、いちいち、なんで、どうして、どうやって、何のためにと考える嫌な癖があるわけですが、私自身はもちろん私自身の頭の中のことですから、それが悪いこととも、おかしなこととも考えず、当然のこととして生きてきました。ですから、上記のような「お経」に対する疑問が頭をかすめれば、いちいちその存在理由という理屈を必死に考えてしまうのです。そして、考えれば考えるほどに疑問に思うことは、

どうして私以外の人は、疑問に思わないのだろう
どうして、こんないい加減な現状を受け入れるのだろう

 というところにたどり着いてしまうのです。
10数年前まではそこで終了だったのですが、残念ながら現在「ブログ」なるものが存在し、インターネットの片隅とは言え、意見発信ができてしまいます。だからその鬱憤をこのブログに書き続けてきたのですが(最近極めてエントリーが少ないですが・・・、鬱憤が減ったか・・・)、ちょっと待てよと思い出した今日この頃なのです。そう、何か知りませんが、私も悟りが開けたのかもしれません(笑)。

 考えなくてはならないことは、「私が疑問に思っていることを、全ての人が疑問として持つべきである」ということが正しいかどうか。「全ての人が、私レベルの屁理屈屋になるべき」という考えが、正しいことかどうか。仏教の教えを、全ての仏教徒が知っていなければならないのかどうか。あるいは、知ろうとしなければならないものなのかどうか。宗教者(身近なところではお寺の坊さん)は、徹底的に信徒に教えをたたき込むべきかどうか。

 最近の私の考え方によれば、人それぞれにレベルというものがあり、全ての人を同一レベルまで引き上げなければならないという考え方は非常に危険であると思っています。偏った私のような人間の考え方を全ての人が興味を持ったり理解することはそもそも無理です。理解できる人が、自分の立場で賛成反対すればいいのであって、理解できない人に考えろと押しつけることこそ大問題なのです。

 実は、まさにそれを体現しているのが「お経」ではないかということを最近考えていたのです。お坊さんが、お経に書いてあることの全ての意味を担保して、信徒の我々は、よくわからないけど、とにかく読んだり聞いたりしていればいい。意味が知りたいレベルの人は、調べればいい。間違っていると考えるレベルの人は反論すればいい。何もわからないといって、何も疑問に思わないからといって、何も考えないからといって、そういうレベルなのであれば、それでいい。
最終的にはお坊さんが担保してくれているので、全ての人がいずれにしても極楽浄土に行かせていただける(死んだらだけど・・・)。そういう世界なのかなと考えているのです。

 そう考えると、いわゆる各種宗教の原理主義というのは、宗旨の原理主義ではなく、信者のレベルに合わせることなく全ての信者に徹底させるという意味での原理主義ではないかと思うのです。それが理解できない人にまで、考え方を押しつける。それは、原理主義という理屈を考えた、ある種のエリートたちの自己満足に過ぎず、エリートの理屈を、エリートでない一般の人々に押しつけることが本当に幸せなのかどうかは、神のみぞ知るということでしょうか。

 元ブログ「彰の介の証言」から、新シリーズのようで、過去記事の繰り返しになる、エリート論の第一弾をコピペしました。第二弾があるのかどうかはよくわかりません。エリートがエリート目線で、世の中の誰もが、エリートのようにできると考えると、そこには不幸しか待っていません。まさに新自由主義批判なのですが、さてさていかがでしょうか。最初はとっかかりに、ゴルフの話題を。




 一応、一応ですが、私、ゴルフを少々たしなんでおります。しかし、ほぼ練習というものをしたことがありませんでした。なぜ、練習をしないのかと言えば、自己流で練習をしていると、やればやるほど打てなくなってしまうからです。かといって、ゴルフ教室やら、レッスンやらに行く気は全くない・・・。前日こう打てばいいのかと開眼したつもりが、今日は全くできない。それを繰り返すうち、練習してラウンドしても、練習しなくてラウンドしても結果がほとんど変わらないと気付いて、ぱたりと練習をしなくなってしまったのです。

 ところが、だんだん年をとってきたら、まあ当たり前なのですが、以前のスコアーをキープできなくなってしまいました。まさに、素人レベルから、ド素人レベルへ、レベルダウンしてしまったのです。しかもゴルフ自体1年に1回か2回程度ですから、上手くなりようも無いわけです。

 そんな折も折、ふとしたきっかけで、現在1週間に1~2回ほど打ちっ放しに行くようになりました。球数は少ないですが、そもそも体をほとんど動かしていなかった若年寄にとっては、丁度いい運動となっています。

 そしてそのきっかけというのが、動画サイトに無数に投稿されている、ゴルフのレッスン動画を見たことでした(若干著作権的に怪しいものもありましたが)。ゴルフ教室やら、レッスンやらに行く気は相変わらずありませんが、何となく動画でこう打てばよいと解説されているのを見ると、自分でもまねしてやってみようかと考えたわけです。その当たり極めて単純な精神構造の私でございます。

 結論から言うと、いくら動画を見たからといって、言われているとおりに打てているのかどうかは自分では全く評価できませんから、ちゃんと先生に見てもらえる、ゴルフ教室やら、レッスンやらの方が確実に上達できるのではないかと思わなくもありません(笑)。が、まあ、何となく、打つ理屈というものが自分なりに理解できるようになり、以前よりは打てるようになったのではないかと考えております。もちろんそれが、忠実にレッスン動画の再現ができているからなのか、ただ単に、それをきっかけに定期的に練習ができているからなのかはよくわかりません。一応、両方としておきましょうか。

 そんな、私の下手なゴルフの話はともかく、その無数にある動画を繰り返し繰り返し見ているうちに、非常にためになるレッスン動画と、全く役に立たないレッスン動画があるということに気付きました。もちろん個人的な見解であり、見る人のレベルや癖などに基づく合う合わないということも当然あります。また、動画に出てくる先生に、直接教えてもらえれば上手なるかもしれませんが、あくまで、動画を通して上手くなるかどうかという視点からの話です。

 それは、その動画に出てくる先生というのはゴルフが非常に上手い人であり、動画を見ている、例えば私は、ド素人レベルであるということを、どのように認識しているかという問題に帰結します。

 動画の先生というのは、プロゴルファーがほとんどですが、一線で活躍するツアープロから、ティーチングプロまで様々です。いずれにしても、小さな頃からゴルフを始めて、おそらく毎日何百??何千球???という練習を積んできたのでしょう。我々ド素人というのは、ほとんどが社会人になってからゴルフを始めて、練習といっても、私のようにせいぜい週1~2回、1回に百球程度打ちっぱなしをする、或はそれ以下という人も多いのが現実です。つまり、先生が、我々ド素人の目線に落として指導しているのか、それとも、プロのイメージのまま我々ド素人でも理解できるはずだと思ってプロ仕様で指導しているのかで、我々ド素人に役立つかどうかがはっきり分かれてしまうのです。

 おおざっぱに言って、一線で活躍するツアープロの指導は、プロのイメージのまま、スイングのイメージだけを語ることが多く、我々ド素人には一体どうやって打てばいいのか具体性が無く全く理解できないことが少なくありません。いわゆる長島式「パ~ンと打て!」みたいな感じです。よくあるパターンは、「こういうイメージを持ってクラブを振るといいと思います。では、やってみます。はい、このように柔らかい球が打てました・・・。」じゃあ、な~んにもわかりませんし、それはプロだからできるという話が結構多いのです。

 一方、多くのアマチュアの生徒を抱えているティーチングプロの場合、生徒にどのような言葉を使って、どうのように指導すれば上手くなるか?という観点で指導していることが多いため、非常に我々にわかりやすいことが多いと感じます。「こういうイメージを持ってクラブを振れとよく言われますが、アマチュアの皆さんがそれをやると、こうこうこういう理由で、むしろ球筋が悪くなります」なんて言われて目から鱗ということが少なくないのです。

 要するに、「プロの打ち方ができれば上手くなるはずだ」という指導か、「アマチュアが上手くなっていくその結果、経験としての」指導法なのかという違いであり、我々のようなド素人であっても「プロのように打てるはずだ」と考えているか、「アマチュアはアマチュアであり、プロじゃない」と割り切っているかの違いとも言えるでしょう。

 今後(同じような内容で過去にも書いてきましたが)、「エリートが、エリート目線で、エリート仕様の世界を作ってしまうことに警鐘を鳴らそう」と思っているのですが、そのとっかかりとして、ゴルフの話をしてみました。ゴルフのエリートたる、プロゴルファーが、ド素人にプロ仕様の指導をすると、そこには不幸な世界しか訪れない・・・・というお話をさせていただきました(笑)。個人的見解が随分含まれておりますので、その当たりは、ご容赦の程よろしくお願いします。

 元ブログ「彰の介の証言」から、人間相対性理論シリーズをコピペしています。 昨今、社会的弱者を助けることは、自立を阻害するだけという、ある意味新自由主義的な意見を唱えられる方々がおられますが、現実的にそういった政策が実現されることの意味というものを考えてみました。私は、そんなにシャープな世界ではなく、曖昧な世界だとおもいますがね。

 

 同じ社会に生活している以上、困っている人がいれば助けなければならない・・・と考えるのが日本人というものですが、昨今、いろいろな意味で、他人を助けることへの疑問というのが、あちらこちらで聞こえるようになりました。  

 一般論として、社会的弱者を助けるということに疑問を感じる人は少ないのでしょうけど、どうしても、「弱者を助ける制度」なるものができてしまうと、そんな制度に頼らず生きていこうというまっとうな人々がいる反対側で、インチキしてでも、その制度に乗って楽をしよう、という輩が出てきてしまうものです。そんなインチキ野郎や、おサボり人間の実例を目の当たりにすれば、「あんな奴らを助ける必要はない!!」と思うのも、これまた人間というものです。  

 例えば、生活保護を受けながら、しっかりスマホを持っていたりして、たばこがやめられず、パチンコ三昧なんていう人がいるわけです。そんな人が、「息が苦しい」と言い出して、医療機関にかかっても、医療費はしっかり出してもらえて、入院もできる。たばこをやめろと言っても、聞く耳を持たないなんてなれば、カチンと来るのも仕方がないでしょうか。  

 また、昨今の不況から、職に就けない人や派遣切りなどが話題となったことがありました。これらの方々にも、場合によっては、それこそ生活保護の申請をという話しもあったと記憶します。しかし、こんな話に対しても、失業保険などを充実させると、職を探そうとしないから逆効果だとか、ましてや、生活保護なんて簡単に認めていたら、その方が楽だと思う輩を大量生産してしまうではないかと言った批判も耳にするわけです。  

 つまり、「弱者を助ける制度を充実させれば、多くの人間を堕落させてしまうだけではないか・・・」という考え方ですが、私も昔は「そうだよなあ」と漠然と賛成していました。以前、新自由主義の群像-自助論とブラック企業というエントリーでも、「自助論」の一節を取り上げましたが、まさに内容は同じことです。
外部からの援助は人間を弱くする。人のために良かれと思って手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失いその必要性も忘れるだろう。
 最近、政治の世界において、上記のようなある意味極論を訴える政治家を見かけることがあります。極論、すなわち、自助論の精神そのままに、「弱者救済制度は百害あって一利無し、自立を妨げるだけである、廃止するべきだ」という訴えです。もちろん、そういった政治家は、一方で「本当に社会として助けるべき人々が、現実には助けられていないことも多い、本物の社会的弱者は助けるべきだ」ということをペアとして当然訴えています。すなわち、インチキ野郎やおサボり人間は当然助ける必要はなく、そうでない本物の社会的弱者はしっかり守っていこうというわけです。  

 そう言われれば、もしかしたら皆様方もその通りだと思われるかもしれません。しかし、そんな簡単にそのような理想論が達成できるのでしょうか。残念ながら、私自身が考えているこの人間相対性理論の方程式を解いてみると、決してそんな解は導かれないということを感じています。解があるのかといわれると、実は解はないのですけど・・・、解は、どこまでも曖昧であるということしか導かれません・・・。ということで、いつもの私の屁理屈を始めてみましょう。  

 助けるべきではない人間と、助けるべき人間。何かしら、制度を設けたとするならば、前者と後者を明確に別ける定義を設定しなければなりません。すなわち、どこかで線を引いて、こちら側の方々は助ける、こちら側は助けないとするわけですね。さてさて、そんなにすっきり、みんなが納得いくように線引きというのはできるものなのでしょうか。結論から言えば、私は、そんなことは絶対に無理だと考えているのです。  

 つまり、どこかで線を引けば、必ず、矛盾する事象が生まれるということです。この人は助けていいような気もするが、助けない方のカテゴリーに入っているという場合と、こんなやつ助ける必要もなさそうなのに、助ける方のカテゴリーに入っているという場合が必ず生じるということです。それは、絶対的な意味として、矛盾する事象が生じるとも考えていますし、助ける・助けないという概念が、人それぞれ相対的に違う(極めて曖昧な概念である)という意味でも、全ての人に納得してもらえる線引きなど無理だと考えるのです。  

 例えば、職場に馴染めず、すぐやめてしまうことを繰り返し、結局生活保護を受けているような一人暮らしの方。これは、ただの本人の堕落と判断しますか?、それともやむを得ず、社会的弱者の一人と認めますか?。生活保護を打ち切れば、嫌々ながらも働き続けると思いますか?。仮に働かず飢え死にしても、それは自業自得だと考えますか?。  こんな事例であれば、私自身は、生活保護を受けざるを得ない事例と考えますが、実際には本人の確信犯的な堕落かもしれず、まあ、判断するのは無理というものです。そんなことを考えれば、線引きなんてたやすくできるものではないと思いませんか。  

 そんな線引き不全を回避する方法は、私が考えるに一つしかありません。すなわち、みんなが信頼できる特定の神様のような人物に、助ける・助けないというすべての判定をゆだねるという方法です。この人は、助ける、こいつは助けない、という判断をその信頼できる人物にゆだねわけですね。ただ、そんな神様のような判断ができる人物が存在するのでしょうか。残念ながら日本史上を考えても、南町奉行・大岡越前守様くらいしか思いつきませんがね・・・。  

 結局のところ、万人が納得のいく線引きは存在しない、というのが私の結論です。であれば、どうするかといえば、線引きの位置をその時の社会情勢や考え方に合わせて引きなおすしかないと思うのです。つまり、できるだけ弱者を助けるべきだと判断するのであれば、多少おサボり連中も助けてしまうことになるけれども、それには目をつぶって、より多くの弱者が助かるように線を引く。反対に、できるだけ自立を促したいのであれば、本来助けるべき弱者が保護を受けられない事例が出てしまうかもしれないけれども、それには目をつぶって、おサボり撲滅ができるように線を引く。そういう線の引き方しかないでしょう。  

 私はどう考えているかと言えば、現在の格差拡大社会においては、多少おサボり連中を助けることになっても、弱者を救うべく線引きするべき時代だと思っています。これは、まさに新自由主義批判そのものであり、一見それらしい、おサボり撲滅の考え方が、非常に強い格差拡大圧力であると考えているから他なりません。個人の自立への啓蒙と、日本社会全体の幸福を混同してはなりません。新平等主義的国家観を持って考えないと、ただの個人主義に収斂していくだけのことです。それは、本来の日本の姿から、どんどん離れていくことになるだけのことですから・・・。  

 線引きの曖昧論、ご理解いただけるかどうか自信はありませんが、引き続き曖昧の世界へ、皆様をご案内いたします。
  元ブログ「彰の介の証言」から、曖昧シリーズ、人間相対性理論をコピペしています。今回は、過去記事の焼き直しですが、歴史のもっともらしい解釈は、結果論であり、絶対的な理屈なんて無いでしょ?という、私の屁理屈でございます。


 評論家と呼ばれる方々についての雑感は、過去にも何回記事にしてきました(評論家評論経済評論家と競馬評論家結果論的評論家による結果論的解説評論はファンタジー)。内容はそれほど変わらない(ほとんど同じ)のですが、絶対相対(曖昧)をキーワードに、もう一度書き直してみます。 

 今回は歴史家と呼ばれる方々のお話をしましょう。そのお仕事と言えば、過去の歴史を研究し、その中から重要だと思われる部分を取り出すことであったり、歴史的事実が起きたことの理由を研究したり、埋もれてしまった事実を明らかにすることであったりとそんなところでしょうか。 

 さて、当然ですが、歴史というのは過去のことですから、起きてしまった事実をねじ曲げることはできません。歴史的事実の分析において、過去の他の歴史家とは違う解釈をすることはあるでしょうが、今さら織田信長は桶狭間で敗戦したとか、関ヶ原は西軍の勝利とか言われても困ってしまいます。したがって歴史家というのは、織田信長がどうして10倍する今川軍を破ることができたのか?、どうして、関ヶ原で徳川家康は勝利できたのか?ということを分析することになります(当たり前です)。 

 ここで、ど素人の私が、とんでもない暴言を吐きましょう。例えば桶狭間の戦いで、なぜ織田軍が勝利できたのかということに関して、多くの歴史家の方々が、詳細に分析されているわけですが、その分析に対して、

 「所詮、その分析は、結果論ではないのですか?」

と発言したとしたら、確かに暴言以外の何ものでもないでしょう。恐れを知らずとはこのことか?。まあ、お叱りを覚悟しつつも、しかし、屁理屈屋の私の暴言にも、一応理屈っぽいものがあるらしいのです。 

 歴史的事実としての明確な結果は、決してねじ曲げられない以上、その結果に至る道筋には明確な理由があってこそ起きたと考えるのが歴史家の立場でしょう。したがって、桶狭間の戦いにおいて、どうして織田軍が勝利を収めることができたのかという、その理由を考察することが歴史家の仕事となります。 

 そしてその歴史家の研究による信長勝利の理由が、例えば「徹底した情報収集が行われた」とか「攻撃目標を義元の首一つに絞った」、「雨を幸いに奇襲した」等とされています。しかし、これは、信長が勝ったからこそ、勝ったことの理由としてあげられているものです。ですから、結果論と言ったのです。これらの条件をあらかじめそろえていれば、必ず勝利できたかどうかは神のみぞ知るで、わからないでしょう。皆さんが当時にタイムスリップして、信長の参謀になったとしたら、必ず10倍する今川軍に勝てる自信がありますか??。私はそんな自信、全くありませんね。義元の料理人になって逃げますが・・・。何か?。 

 結局のところ、その結果に至る明確な理由があったはずだということが強調されればされるほど、その結果に至ったことは、「必然であった」という結論になってしまうのです。無意識のうちに、現代人のほとんどが、桶狭間の合戦で織田信長が勝利したことを、必然であったと勘違いしているように思います。理由があって、結果がある、したがって、信長はもともと勝利を確信していて桶狭間に挑んだはずだと・・・。もちろん、勝利の確信があったとはとても考えられないというのが私の意見です。 

 歴史のような、待ったなしの一回勝負で、必ず勝てるという十分条件が存在するはずだということを突き詰めたとするならば、むしろ、10倍の兵力で敵を攻めるということの方が必勝法だと考えるのが普通ではないでしょうか。しかし、負けてしまえば当然ながら必勝法ではないことが証明されてしまいます。そう考えれば、信長の勝利の理由など、結果論以外の何ものでもないということがよくわかると思います。 

 ということで、ド素人歴史家の私彰の介の考える信長勝利の理由は、歴史家の皆様の考察通りの努力や作戦があった上で、「打って出ると決断したこと」と「戦は時の運」(勝利の理由になっていない・・・)という2つなんですけど、納得される方が皆無なのは十分承知の上でございます。 

 思考過程は、過去の曖昧シリーズと同じということがおわかりでしょうか。明確な結果があるのだから、絶対的な理由が存在するはずだという思考過程から、絶対的理由を完遂したのだから、結果は必然であったという結論に飛躍してしまうという話です。現実には、数多くの選択肢の中から、実に曖昧な偶然の組み合わせで、ある一つの選択肢が選ばれ、歴史が刻まれていくのでしょうが、人はその結果に対して、なぜか絶対的理由付けを欲し、さらにその流れを必然と勘違いしてしまうのですね。まあ、過去のことは確かに歴史家に任せておけばいいのですけど、未来についても同じように結論を導けると考えている方々がいるので、それはさすがに大変なことだと思っているのですが・・・。 

 今回は、過去記事の焼き直しです。今後も皆様方の絶対的必然の世界を、曖昧な世界に引き込む作業を続けたいと思います。

元ブログ「彰の介の証言」から、曖昧シリーズ、人間相対性理論をコピペしています。医学における統計学とは、その治療方針を一変させてしまう可能性もあるのですが、さてさて、そこまで、信じ込んでしまっていいものやら・・・。




 医学は科学であるということに、疑いの余地はありません。そこには微塵の曖昧さもありません。こんな当たり前のことを疑っている人間、ましてや、医師の中にそんな人間がいようはずはありません。私以外・・・。おっと、私は医師ではなく、やぶ医者でした・・・。

 前回、前々回の当シリーズを読んでいただければわかるかと思いますが、私は、当然のことながら、医学は科学であり、科学としての真理の追究をやめてしまったら、当然それは問題と考えています。しかし、現代の医学が、絶対的な答えを提供できているかといわれれば、そこに疑問を持っているわけであり、目の前の事象、事象で対応を変えていかないと、よい結果は生まれない場合があると考えているのです。

 医学の科学性は、おおざっぱに言って
2つあります。一つは、基礎医学であり、もう一つが臨床医学です。基礎医学は、生命の正常な仕組みを解き明かし、病にいたる異常を説明し、病態を整理するための学問で、そこに曖昧さを持ち込むことは普通ありません。敢えて言えば、あまりに生命の仕組みが複雑すぎるため、まだまだ解明できていないことが非常に多いことに由来する曖昧さはあるかもしれませんが、だからといって「さじ投げた!」的な結論にはなりません。よくわからない場合は、「原因不明」とされますが、その意味は「原因はあるはずだが、まだはっきりしていない」ということであり、現在進行形で研究中であるという宣言でもあります。

 一方臨床医学とは、基礎医学を基にして、診断治療を行う実践編というとわかりやすいでしょうか。繰り返しにはなりますが、こちらも基本的に曖昧さは持ち込まれません。しかし、人間相対性理論(医学と料理人の曖昧)で書いたとおり、個々、個人の体はそれぞれに背景が違い、それぞれに違ったブラックボックスでもあるため、特に治療に関して、一律に行うことがいいことかどうかわかりません。ある意味、教科書通りではない曖昧さが生じるのは当然だと考えています。誰がそう考えているかと言えば、私が考えているのであり、全ての医師の共通認識かどうかはよくわかりません。おっと、私は医師ではなく、やぶ医者でした・・・(くどい?)。

 そんな臨床医学における、主に治療分野において、その科学性を担保しているのが、統計学という学問です。例えば、
Aという薬と、Bという薬を、ある病気の患者100人ずつに投与します。Aという薬で50%に、Bという薬で70%の患者にある一定の効果があったとすれば、この5070という数字の差に意味があるのかどうかを計算し、意味があると判定されれば、Bという薬がAという薬よりも効果が高いという科学的な証拠が得られたと考えるわけです。

 こういった統計学的な科学的な証拠がでてくると、臨床の現場が一変することがあります。当然のことながら、その病気の患者が現れた場合、普通医師は、
Aという薬ではなく、Bという薬を使います。何となくAの方がいいような気がするとか、Aの方が好きだからとかいう、医師の曖昧な裁量が排除され、絶対的な科学的証拠があがった以上、Bを使うのが科学的に合理的な判断とされるわけです。場合によって、このような証拠を基に、ガイドラインと呼ばれる治療法が学会から提唱され、Bが高い推奨度をもって、第一選択薬に選ばれるわけです(上記の例はあくまで適当な例であり、多分不適切ですが)。

 そんな状況下で、私が「かん」によって、何となく、
Aという薬の方がいいような気がして、ある患者にAという薬を使っていたとすると、若手の先生から「Aではなく、Bの方が効果が高いというエビデンス(証拠)が出ています。そもそもAという薬の効果については、エビデンスはありませんよね。なぜAなのですか?」と叱られることになります。このあたり、上司ではなく、若手の先生に叱られるのが常というもので、本当に怖くてしょうがありません。怖くてしょうがないのですが、一応そこには経験とかんに基づく曖昧きわまる屁理屈というものが存在することを説明しましょう。

 上記の
ABの薬の話は、非常にいい加減な作り話ですが、わかりやすいので、この例を使って屁理屈を垂れてみます。まず、だまされてはいけませんが、ABもある病気に一定以上の効果がある患者さんが、それぞれ5070%ですから、Aが効かない薬というわけではありません。敢えて、Bという薬がAという薬よりも「効果が高い」という証拠が得られたと表現しましたが、一定以上の効果という意味では、変わらないわけです。

 診断についても重要です。確実に診断ができる分野もありますが、診断に確信が持てないことも残念ながらよくあります。「この病気だろうとは思うけど、血液検査のこの項目が、この病気の典型例とは言えない、本当にこの病気と診断していいのだろうか・・・」なんて思うことは日常茶飯事です。しかしその病気っぽい・・・となれば、何らかの治療をしなければなりませんが、この時「
Aという薬なら広く別の病気でも効果があるから、まずはAで治療しよう、診断がはっきりするか、或は、このAの効果が出てこなければBに切り替えよう」と言う考え方は、許容されないのでしょうか。

 或は、「患者さんの年齢、合併症を考えると、
Bという薬のこの副作用が気になるなあ、ここは無難にAで治療しよう」なんて考えることもあります。これも許容されませんか。

 このあたり、全く逆のことも真であり、私の意見が正しいというわけではありません。診断が曖昧なのは、“やぶ”だからとも言えますし、副作用が出てもいないのに心配するのはおかしい、早期に効果のある薬を使わなければいけないのに、そのチャンスを逃している・・・などと、これまたお叱りを受けるかもしれません。

 まあ、そうなんですけどね、世の中、そんなに絶対の「診断」ができ、その時わかっている最良の(証拠のある)治療法が絶対的なのかどうかといわれると、やっぱり私は疑問ですね。
70%は賛同しますが、30%が疑問です。何が疑問なのかと言えば、統計学は、確率であり、平均であるということです。目の前の患者さんが、平均的なその病気の患者さんで、平均的な薬の効果が期待できるという補償は、あくまで確率的なものだということです。典型的な患者にはぴたっと来るのでしょうが、ちょっと例外があったり、複雑な患者であれば、絶対とは言えないというのが私の考え方なのです。

 そう、目の前の患者さんが、例外的なのか、それとも平均的なのか、それを客観的データだけでなく、様々な経験から(別名「かん」)、証拠にとらわれずに治療法を選んだり、何度か診察することで、治療法を調節しようと考えているのです。まさに曖昧の極みであり、屁理屈屋の思考過程に絶対的信念があるとしたら、それは、「絶対なんて絶対にない」ということのみかもしれません。

 しかし、何度も書きますが、現代医学において、私のような考え方は相当に邪道であって、おおっぴろげに言うことは許さない雰囲気があります。医学も、曖昧を許さず、一律の診断や治療が絶対化されつつあるのです。「だからそれは、
NHKの今日の料理のレシピと同じだと何度も言っているのに・・・」、とは言えませんので、小さな声で、こうしてネットの片隅で、独りごちさせていただいております。

 とは言え、皆様におかれましては、決して私の口車に乗らず、最良の医療をお求めになりますようお願いいたします。

 (上記私の意見は、例えば、診断にぶれようもなく、命に直結するような、癌の治療などには基本的に当てはまらない話です。基本的に同業者向けの愚痴であり、メーカーや権威に対する意見とお考え下さい。最後に書きましたように、患者として医療を受けられる場合は、医師の提供する統計学的データを素直に聞いていただき、自らの治療を判断していただきますことを願っております。ここまで読んでもらって、申し訳ありません。)

元ブログ「彰の介の証言」から、曖昧シリーズ、人間相対性路論をコピペしています。曖昧な世界が大好きな私は、町工場の名工の発する「かん」と言う言葉が大好きです。しかし、世界的には、こういった曖昧な世界は、排除される運命にあるのでしょうか。



 前回(
人間相対性理論(医学と料理人の曖昧))、絶対的で適切な答えがあるはずだ・・・として考えられている、今の医学の傾向に、刺客を送られるのではないかということを恐れつつ、ちょっと反旗を翻してみました。説明として料理をあげてみましたが、私の意見に賛同いただけるものなのかどうかはわかりませんが。

 私自身は、医学という科学を、相対的で曖昧な学問と捉えているところがあります。ただ、そういう態度一辺倒でいるのは実に危険なことで、時に冷や汗をかくことがあります。若い先生方に、経験則から医学的な説明をすると、「それは、エビデンス(証拠)のある話なのですか?」等と言われて答えに窮することがあるのです。怖いですね。

 一応、私の感覚では、そのエビデンスとやらが「
NHKの今日の料理のレシピ」で、私の経験則が、有名シェフの「さじ加減」というつもりで、えらそうに話しているのですが、なかなか、そういう価値観を持っている医師は少なく、私の独りよがりな考えなのかなあと感じてしまいます。

 そんな私にとって、非常に大好きな言葉が、前回から何度となく使っている言葉である「かん」という言葉です(漢字だと勘ですか?)。この、「かん」という言葉がよく出てくるのが、町工場の名工と呼ばれる方々や、職人さんたちです。よくテレビで、この名工と呼ばれる方々の作業の様子を映していますが、例えば
1000分の1ミリだけ金属を削るなんていう神業についてどうやっているのかと聞かれると、「“かん”だね」なんて答えているわけです。極めて私好みの答えです。

 これも、右手の握力を何
Kg、左手の角度を何度にして、ちょっとアレして、こっちをコレして、何秒間研磨すれば、何ミリ削れる・・・ということを絶対的なデータとしてマニュアル化出来るのかもしれません・・・、が、もちろんそんな説明はとても無理だから、「“かん”だね」という話になるのでしょう。いわゆる、「体が覚えている」という話ですね。「習うより慣れろ」という言葉もありますが、仮にマニュアル化出来たとして、それをいくら読み込んでも、体が覚えていない人間がまねできない作業であるということは言うまでもありません。

 また、
1000分の1ミリをわざわざ削る話と同じですが、その手間を惜しまない作業ぶりには本当に感嘆します。最後の一手間で、ぴたりと刃先を合わせたり、寸分狂わず組み立てたりする様は、感動以外の何ものでもありません。その一手間が無くても製品としては使えると思いますが、「自分にしか作れない」という職人魂が、それを許さないのでしょう。

 そんな町工場や各種職人さんの超絶的な技術や丁寧さ、アイデアが、最近見直されつつあるわけですが、まさにこれは絶対的なマニュアル化や機械化が出来るような世界ではなく、極めて曖昧な「職人のかん」に支えられた世界です。しかし、おそらく日本が世界に誇るであろう、これらの技術も、グローバル化という経済の流れに、徐々に絶滅への道をたどっていると聞いたことがあります。確かにテレビで映される名工は、どの方も高齢で、後継者がいないという工場も少なくありません。完成度が極めて高く値段が高い物よりも、安くてそこそこのものがよく売れる時代になってしまったということが原因なのでしょうか。大企業が潰れないよう政策をとるのと同様に、中小企業の技術の継承も大事だと思うのですが、そちらの関心は薄いのでしょうか。

 どうしてそんな話をしているかと言えば、そんな町工場の超絶技術ではないにしても、身の回りの「もの」の質が随分落ちているなあと感じざるを得ないからです。先日も卓上扇風機(手のひらサイズの小型扇風機)なる商品をとある場所で景品としてゲットしたのですが、とてもではありませんが、使える代物ではありませんでした。確かに今時っぽく、電源は
USBでとる形式で、電池やコンセントにつなぐ必要はありません。パソコンをしながら、涼やかな風が少しでも吹けばいいのかなあとは思ったのですが・・・。

 残念ながら、その扇風機、非常に音がうるさいのです。外箱には静音っぽい表示がしてありましたが、大嘘でした。また全くダメなのが、ファンが回ると、固定できずに動き出してしまうことです。これでは、使いようがありません。さらに致命的なのが・・・、ぜんぜん風を感じられないのです。一体この商品を作った会社というのは、何を作ったのでしょうか。風がこなければ何の意味もありません。大変もったいない話ではありますが、即ゴミ箱行きとなった次第です。

 あと、最近感じているのが、延長式のコンセントのできの悪さです。どこのできが悪いかといえば、プラグを差し込む時にさくっと差し込めないことです。何となく引っかかり感があるのです。昔はそんなことありませんでしたが、皆様はそう感じませんか。その他、切れないはさみ、ふたがしっくり閉まらない入れ物、等々・・・・そんなこんな、質の悪さを感じることは例を挙げればきりがありません。

 まあ、特に卓上扇風機の話は極端すぎますが、身の回りの多くの物が、多少の使い心地よりも値段を下げることに集中し、職人のかんに頼るような非効率な生産は敬遠され、最後の仕上げの一手間をも省く様になってしまったのでしょう。もちろんそれは、経済的な理由が大きいのでしょうが、私的には、「かん」とか「職人魂」とかいう曖昧な世界観を排除するという世の中の流れの結果ではないかとも考えているのです。経済の効率化は世の中の必然的な流れであり、曖昧で相対的な「かん」というものを排除し、「職人技」を必要としない、マニュアル化や、スイッチポンで同じ物ができてくる機械化こそが目指すべき「絶対的世界観」という風潮が、この日本にも押し寄せてきているのではないかと感じざるを得ないのです。

 再び、この話を医学に置き換えてみると・・・、経験則による「かん」による診断や治療を排除し、エビデンスとやらに基づいて診療を行えば、質の悪い卓上扇風機のような診断や治療が、そこら中で行われる・・・・おっと、またしても口が滑ってしまいました。いやいやそんなことはありません。医学は科学ですから、科学的データたるエビデンスに基づけば、誤るようなことはありません。ということで、刺客が送られないことを祈るばかりです。

 前回に引き続き、元ブログ「彰の介の証言」から、人間相対性理論シリーズをコピペします。
医学とは、曖昧が許されない世界・・・かもしれませんが、私は、曖昧と、絶対のバランスが大事であると考えています。


 
 私は職業柄やぶ医者をやっていますが(久しぶりにこの台詞が出た!)、一般に医学というのは、科学であると考えられています。正常な人間の仕組みがあり、病気となる原因が存在し、そして薬や手術で、その原因を除去したり、人間本来の治癒能力を引き出したりするわけで、その思考過程は、曖昧を許さない科学であります。   

 と言いたいところなのですが、現実には、理路整然と診断や治療ができるわけではありません。現代の医学の知識ではまだまだわからないことも多いのです。しかも人間の体の仕組みはまだまだブラックボックスであり、例えば薬剤を投与した時、その期待される機序通りに効果が出るかどうかは、実際投与してみないとわかりません。しかも、個々の人間が、それぞれ違ったブラックボックスであるため、効果が出る症例、出ない症例、むしろ副作用が強く出る症例・・・といった具合に、一定の効果が期待できないことも多々あるということになります。   

 診断も同じで、所詮病名というのは、人間が医学という学問を仕立てて整理整頓したものに過ぎません。神様が、こういう病気があって、この病気の特徴はこうこうこういうものだと教えてくれたわけではないのです。従って、しっかり「~病」と診断することが出来ない場合や、病気の特徴に例外というものが絶えず存在し、我々を悩ますことになるのです。   

 実はそれだけではありません。人間個々に性格の差というものあります。医学的ではない話ではありますが、場合によっては、患者その人の性格をくみ取って治療を選択していかないと、本人の人生への納得を得られないこともあるかもしれません。 

 まあ、そんなこんなを考えてみると、「医学は科学であるという探求心を決して忘れてはならないけれども、実臨床となると、教科書や論文に書いてある、理路整然とした病理的作用機序や診断分類法を、「絶対的真理」と考える方が、答えを得にくい場合もあるなあ・・・」というのが漠然とした私の気持ちなのです。  

 そんな私が大事にしているのが、結局のところ「経験則」ということになりましょうか。医学にふさわしくない言葉ではありますが(偉い先生に見られたら怒られるのだろうなあ・・)、いわゆる経験に基づく「かん」と「さじ加減」ということになります。ただ、この経験則というものは、まさに「曖昧の世界そのもの」だけに、これを強調しすぎると医学が科学からどんどん離れてしまいます。そして、これをよしとしない雰囲気が、現在の医療の世界に相当に強いと感じています。  

 私が考えていることは、前回ともつながる?ことですが、料理をつくることを考えればいいでしょうか。例えば、NHKの今日の料理のレシピを参考にすれば、そこそこおいしい料理が作れるのでしょう。塩が小さじ1杯、醤油が大さじ2杯・・・、さらに、強火で10分煮る・・・等と事細かに書いてあるわけですから、その通りやればいいのです。その参考書に、曖昧な表現はありません。(ちょっとあるかもしれないけど無視・・・) 

 ただ、それで、この世で一番おいしい料理ができあがるかと言われれば、あくまで、そこそこの料理ができるとしかいいようがないでしょう。曖昧ではないため、一見ぶれがないようですが、それで超絶料理ができるものではないと思います。  
 有名シェフであれば、その日届けられた食材の違いや、気温、湿度、あるいは、客の好みを考えた上で、「かん」による塩や醤油の「さじ加減」を行い、最高の料理を作り出すと思われます(あくまで想像・・)。   

 では、気温何度、湿度何度、魚がどういう状態の時に、塩加減はどうするのかというマニュアルが存在するのかといえば、当然そんなものは無いと思われます。バリエーションが無限大であり、マニュアル化は普通不可能です。そこで結局のところ、上記のごとく、シェフの経験に基づく「かん」による塩や醤油のさじ加減がされた後、味見をしてさらに調節するという手順でおいしい料理が作られることになると考えられるわけです(あくまで想像・・・)。   

 ここで問題にしたいことは、料理の世界で、味見をして後から加減を調節することを”よし”としない雰囲気があるかどうかです。つまり、そこに食材があり、そこに調味料があり、気温や湿度や、調理器具の具合を勘案すれば、料理を作る前に、適切な塩や醤油の量が本来決定されているはずだ・・・、そして、その塩や醤油の量をマニュアル化し徹底すべきで、「かん」による「さじ加減」で調理した上に、味見して調節するなど邪道である!・・・という考えがあるかないかです。   

 もちろんそんな話がないのは当然です。皆さんは、おいしく仕上がるはずの塩や醤油の量は本来決定されているはずだから、その量を忠実に守って作られた、おいしいはずの料理がいいですか。それとも、シェフが、最後に味見をしてちょっと調味料を追加し、おいしく仕上げてくれた料理がいいですか。まあ、聞くまでもないことだと思いますが、私なら当然、科学的で絶対的ではなさそうだけど、シェフの「かん」という曖昧さから生まれた後者の方を選びますね。 

 ところが、それが、科学たる医学となるとそうはいきません。原因(病因)があるから結果(症状・病態)があるはずですから、症状・病態を突き詰めれば必ず病名が決定することになります。そして病名が決定すれば、必ず適切な治療が決定されることになります。なぜなら、医学とは科学であり、必ず科学的で適切な答えがあるはずだからなのです。   

 ということで、医学は現在、どんどんマニュアル化が進んでいます。治療のガイドライン化、根拠のある治療法の提示、それに基づく治療アルゴリズム化など、医者がやぶでも治療が出来るように懇切丁寧に方針が示してあり、私も重宝します・・・。これを料理に当てはめると、NHKの今日の料理を見ながら診療に当たるのと同じなわけですが・・・、おっと、これ以上言うと、権威の先生方から刺客を送られるので、このあたりにしておきます(汗)。でも、別の言い回しで、今後も私の意見は書いていきますけど・・・。   

 勘違いされるといけないので、「基本が大事である」ということは、強調しておきます。ただその中で、マニュアル化という科学的根拠に基づく“絶対”と、経験に基づく曖昧という“相対”が、丁度バランスをとることが重要だと考えている今日この頃のやぶ医者の私なのですが、なかなか世の中は微妙な方向に進んでおります・・・。
 さらに続く・・・。

 元ブログ「彰の介の証言」から、久しぶりに転載します。絶対と相対について、いろいろと考えることがあり、人間相対性理論シリーズとして、順次アップしていきます。


 

 このブログで、いろんなことを書いてきましたが、およそ
10年も経つと、考え方や、意見が若干変わって来たことに気付きます。ただ、結局一回りして、元々書きたかったことに戻ってきた感じもするわけです。不思議ですね。

 元々書きたかったこと、それは、表題の、「人間相対性理論」ということになりますが、人生も重ね、考えも重ね、議論も・・・・ネットの片隅で独りごちているので、全く重ねていませんが、そうするうちに、ぐつぐつと内容が煮え詰まってきた感があります。

 人間相対性理論?、なんのこっちゃという感じでしょうが、別の言葉で言えば、「曖昧なことがらは、どこまで突き詰めても曖昧である」ということになるでしょうか。はっきりせず、人任せで、どっちに転んでも同じだから、他人に決めさせる・・・という、私の人生そのものといってもいいかもしれません(涙)。

 例えば、「おいしい料理」を考えてみましょう。
「美味しんぼ」を極端に考えてみます。世の中には、究極のメニューなる、“絶対的”においしい料理があるということで、それを探求するということになっていますが、果たして、「おいしい」という概念に、“絶対的”なるものがあるのでしょうか。

 そもそも、人それぞれ、食材や味付けに関して明確に好き嫌いがあります。他人の絶対的においしいものが、別の誰かの絶対的においしいものとは限りません。

 食事が出される状況はどうでしょうか。当時のうまいものは食い尽くしたであろう、かの豊臣秀吉でさえ、「空腹で死にそうな時に食べたにぎりめしが最高にうまかった」旨の発言をしたとどこかで見たことがあります。山登りをして、頂上でたべるにぎりめしは、確かに死ぬほどおいしいものです。そう思われませんか?。しかし、たかが、にぎりめし。究極のメニューと言うほどのものではないことは明かです。食事が出されるシチュエーションによって味が変わるとしたら、やはり、絶対的なおいしさなんて、ないのではないでしょうか。

 食文化という意味で考えれば、年齢、出身地等で全く嗜好が変わります。私的には、味噌は八丁味噌に限ると思っていますが、そうでもない妻は嫌味のように白味噌の味噌汁をつくってくれます。残念ながら、日本全体から見れば、赤味噌派は少数派と言わざるを得ません。おっと、究極のメニューに赤味噌料理が入るかどうかは別ですが。

 高級フランス料理はどうでしょうか。有名シェフのつくる最高級の料理に、けちの付けようはないでしょう。しかし、じゃあ、おいしいから毎日食べろと言われれば、どうなんでしょうか。毎日食べたことはないので、あくまで想像の世界ですが、絶対的においしいであろう高級フランス料理も、毎日食べれば、徐々に慣れてしまい、それが普通になっておいしいという感情が持てなくなるのではないでしょうか。だいいち、飽きてしまいそうですから、フランス料理の合間に、たまに、白菜の漬け物をポリポリしながら、お茶漬けをずるずるとすすったら、そちらの方が恐ろしくおいしいような気もします。

 食事と言えば、おいしさだけではなく、健康という面を考える方もいるでしょう。食材に関し、有機だ、無農薬だと言うところに価値観を置く方もいるでしょうし、天然か、養殖かにこだわる方もいるでしょう。物によっては産地の違いも問題になるかもしれません。
 お店で食事をするということになれば、その店の雰囲気が気にいるか、気にいらないか、そんな違いも人それぞれということになります。

 私の結論はこうです。美味しんぼの山岡のように、“絶対的”においしい料理を探求することを否定するわけではありませんが(料理人であれば、むしろその専門の道を極めるべき・・かな?)、所詮、おいしいという感覚は“相対的”であり、非常に曖昧な概念だということです。そして誰かの“絶対”は他の誰かの“絶対”ではなく、あくまで曖昧な、相対的なものなのですから、それを押しつけるべきでもないと考えているのです。押しつけるとしたら、味噌汁は赤味噌に限る、そのことだけです。えっっっ?。

 しかし、現在の世の中には、そんな、相対的な、曖昧な概念を許さないという雰囲気もあり、また、それこそどこまで行っても曖昧なはずのことがらを、絶対的なイデオロギーで対立していることもあります。

 そんなわけで、私が感じている、絶対という矛盾を、
23つ?取り上げて、これから順次記事にしていきたいと思っています。最近書いてきた、新平等主義シリーズとも多いに関連しますし、前のシリーズの最後に書いた、宝くじの法則は、まさにこの絶対と相対の狭間の話であったことを追記しておきます。

元ブログ「彰の介の証言」から、新自由主義批判、新平等主義シリーズをコピペしています。一応、これで、終わり??のまとめとして、「宝くじの法則」なるものを提案してみました。また何かエントリーする予感がしますが、新自由主義、新平等主義は切っても切れない関係ということを解説してみました。



 新自由主義について考えながら、こうして文字にして書いていると、徐々に考えが熟成されて当初と若干ニュアンスが違ってきているかもしれません。まあ、私はプロでもありませんし、言論人としての責任も感じていないので、(私は言論人とは言えない、そもそもこのシリーズを真剣に読んでいる方も少ないでしょうし)まあ、許してもらいましょう。

 過去の記事で、新自由主義の対極にある概念として、新平等主義を提案してきました。この新自由主義と新平等主義は実際どのような関係にあるのか?という考えが、私の中で徐々に熟成されて煮え詰まってきました。おいおい、どのような関係って、対極と言っているのだから、
180°違う方向性を持つ考え方でしょ?っとツッコミがありそうですが(ツッコミどころか私自身が新自由主義と新平等主義の綱引きとか書いてきた・・・)、現実の世の中では新自由主義的な考え方も新平等主義的な考え方も共に必要であるということをはっきりさせるためには、対極という言葉だけでは足りない可能性を感じてきました。それを簡単な例えで言うとするならば、それが表題の「宝くじ」というわけなのです。

 「宝くじ」・・・当たるといいですね。しかし、そう簡単には当たりません。この宝くじについて、私はこのブログを始めて
2日目に早速簡単な記事を書いています(宝くじ論争)。この記事の内容が実は本日の記事の内容そのものといってもいいと思います。

 「宝くじ」を買う時、世間一般では、
①宝くじは「夢」を買う行為である
②宝くじは買わなきゃ当たらない

という言葉がよく使われます。実際には、宝くじそのものを買うことに後ろめたい気持ちもあって、その言い訳として使われているような気もしますが、ただ、この①、②共に間違ったことを言っているわけではありません。確かに「夢」を買う行為であり、買わないのに当たると言うこともありません。

 一方で、私のようなドけち男は、この宝くじの夢を買うだの、買わなきゃ当たらないだのいう言葉に猛反発しています。

①宝くじはただの納税行為である
②宝くじは買わなきゃ損しない

まあ、世間一般的には屁理屈というやつですが、では、間違っているかといえば、間違っているわけでもないと思います。大半の人は当たりませんので、個人的に、ほとんどが納税行為である(しかも自主的に、行列に並んでまで・・・)ということになります。一部の人は当たったとしても、還元率が極めて低いですから、全体として納税であることに間違いはありません。その当選確率からいっても、買わなきゃ当たらないではなく、買わなきゃ損しないという私の言葉に反論できる方はおそらくいないでしょう。

 さて、この世間一般の宝くじ観と、ドけち男の私の宝くじ観と、一体どちらが正しいのでしょうか。どちらも言っていること自体に誤りはなさそうですが、考え方は
180°違う方向のように思います。

 このどちらが正しいのか?ということに対する私の答えは、
「世間一般の宝くじ観も、ドけち男の私の宝くじ観も、実は同じことを言っている」
というものです。宝くじは、単純な確率の問題であり、極めて少数ながらも必ず当選者はいるわけですから、夢をかなえる人がいるという現実があり、一方その裏返しの関係として、大半の人が損をするという現実も同居しているわけです。したがって、夢を強調する世間一般の「夢を買う」という“夢のある”言葉も、損を強調するドけち男の「納税だ!」という“夢のない”一言も、とらえどころが違うだけで、同じことを言っていると私は考えているわけです。個人的な考え方の違いをぶつけ合い、議論することはおおいにすべきなのでしょうが、意外にこんな「宝くじの法則」的な意見の違い(実は中身は同じ)が世の中には多いのかもしれません。

 新自由主義と、新平等主義は、単純な確率論ではありませんので、そんな単純な話ではなさそうですが、いろいろ考えをめぐらせてみると、対立概念ではあるものの、大局的に、上記のような「宝くじの法則」的にみていく必要があるのではないかと考えています。

 ごく簡単に、新自由主義、新平等主義とは何かを、私の定義で振り返っておきます。新自由主義は「人間それぞれ各人は、スタートラインは同じなのだから、差がついたとしたら、それは努力の差である。だからこそ努力したものがむくわれるように、余計な規制は取り除いて、自由に競争させるべき」という考え方。新平等主義は「人間それぞれ各人は、元々能力に差があるので自由に競争すれば格差が生まれる。格差を少なくする規制は(伝統、慣習も含めて)守っていくべき」という考え方になります。

 宝くじでいうところの、「夢を追いかける気持ち」、これは、新自由主義的な発想に他なりません。能力に差はないのだから(或は、差があることを言い訳にせず)、必死に頑張って夢を目指せと子供達を教育すべきなのか、元々能力に差があるのだから、出来る子は出来るし、出来ない子は出来ない、努力しても無駄であると教育すべきなのか、それは、あまりにも当たり前な結論に落ち着くでしょう。夢を語らなくなったら、社会に何の発展もなくなってしまいます。したがって、世の中から、新自由主義的な考え方を消し去ることはあってはならないのです。

 しかし、実際に夢をつかみ大成功する人間や、国難を切り開く英雄が、ぽこぽこあちこちに誕生することはあり得ません。まさに宝くじの当たりのように、それはほんの一握りの人間といわざるを得ないのです。したがって、外れくじをつかむ多くの人々のために、新平等主義的に格差を少なくすることも十分考えなくてはならないわけで、新自由主義を唱えるのであれば、ペアとして、新平等主義を考えなければ、国家全体の幸福にはつながらないわけです。

 この両者のバランスを保つことを、過去に新自由主義と新平等主義はあくまで相対的で、綱引きをしていると表現してきました。これを、対立概念であって、対立概念でない、実は同じことを言っていると表現し直したのが、「宝くじの法則」ということになりましょうか。新自由主義と新平等主義は、国の幸福論という意味で「対立概念ではなく、同じことを言っている」ということが言いたいわけなのです。

 
ところが、世の中の新自由主義者といわれる方々は、新平等主義的な考え方を対立概念としか考えようとしません。そして自らの考え方を押しつける、それが新自由主義者の悪いところです。努力をしなければならない、努力が足らない、落ちこぼれればそれは努力を惜しんだあなたが悪い・・・と脅迫するわけです。個人的に成功した人々はそれでいいのでしょうが、決して努力を惜しんだわけではないのに、自己責任とされた人々は、どうなるのでしょうね。それを宝くじで例えるなら、新自由主義者は当たりくじを手につかんでいるからこそ、「君たちも宝くじを買いなさい、私が当たったのだから、あなた方も買い続ければ当たるはずだ、買わないから当たらないのだ・・・」と強制している様なものと思うのですが・・・。

 というわけで、若干尻切れトンボですが、新平等シリーズに一応の区切りをこのあたりでつけたいと思います。また何かに気付いたり、間違っていたなあと思ったら、再開します。

元ブログ「彰の介の証言」から、新平等主義シリーズをコピペしています。自己啓発本である「自助論」を取り上げ、新自由主義敵考え方をおさらいします。新自由主義の最大の問題点は、優秀な新自由主義者の考え方が、それをまねできない下々の民に押しつけられることにあります。そんなお話を、ブラック企業を例に出して考えてみました。

 前回、福澤諭吉の「学問のすすめ」を新自由主義の教科書?と書いてしまいましたが、「学問のすすめ」よりずっとずっと新自由主義の教科書といえるのが、サミュエル・スマイルズ著の「自助論」でございます。「学問のすすめ」もこの「自助論」も明治初期の日本で100万部のベストセラーだったといわれ、明治の青年は、これらの書物が掲げる独立自尊の精神に奮い立ったとのことです。

 
あらかじめ断っておきますが、私は竹内均訳の自助論(三笠書房)を参考にしておりますので、原文を読んでおりません。訳者が意図的に訳したり、飛ばしてしまったりした部分があったとしてもわかりません。あくまで、この訳本でのお話です。

天は自ら助くる者を助く

 
こんな格言から始まる「自助論」ですが、この「自助」とは、「勤勉に働いて自分で自分の運命を切り拓くこと」と竹内先生は訳者のことばで書いています。そして自助の反対は、外部からの援助であり、

外部からの援助は人間を弱くする。人のために良かれと思って手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失いその必要性も忘れるだろう。

 
と、かなり厳しい言葉で、自助の精神の大切さを説くことから、この本は始まっています。そして、世界中の数々の著名人の成功のエピソードや、名言をあげて、「努力すれば成功する!!」ということを、繰り返し、繰り返しいやと言うほど繰り返して、読者の頭にたたき込もうというのが、本書ということになりましょうか。いわゆる自己啓発本ですね。 私からすると、若干成功を美化するために、矛盾した内容があちこちにあるような気がしますが、まあ、詳しくは皆様御自身でお読みになってください。

 
さて、私は本書を新自由主義の教科書と呼んでいるわけですが、その理由は、「学問のすすめ」と全く同じで、私が言っている新自由主義の定義そのままだからということになります。何度も書いてきたのでさらっと書きますが、人間は生まれながらに能力は平等であり、差が出来たとすればそれは努力の差であるということを前提として、本書が書かれていることです。

 
例えば、著明な哲学者の言葉として、

全ての人間はその天分において平等である。だから、ある人間に出来ることは、同じような環境に置かれ同じ目的を追求したとすれば、他の人間にも実現できることなのだ。

という引用していることからも明らかでしょう。また上に書いた、良かれと思って手を差し伸べてはいけないとしているところも、自己責任論という意味で、典型的な新自由主義と言えると思います。

 
よく読めば、人間に能力差はないとは言っていない部分や、私のいう新自由主義の定義には当てはまらない部分も、本書にはほんのちょっと、ちらっと程度は書いてあります。しかし大部分では、どんな人間も死ぬほど努力をすれば成功するという新自由主義的な論調が列挙されています。むしろそれを正当化するため?に、成功者は、凡人(決して優秀とは言えなかった)だったとか、貧乏でつらい状況だったとか、決して条件がいいとは言えなかったということが何度も書かれており、あくまで弛まぬ努力こそが成功の元だと結論されています。

 
ただ、私から言わせれば、成功者というのは、ごくごく一部の優秀で能力があって努力できる人たちであって、一般の凡人が仮に死ぬほどの努力をしても、成功者とはなれない確率の方が高いと言わざるを得ないということは、過去に書いてきたとおりです。新自由主義を批判的立場から書いてきた私としては、この部分がごまかしとしか感じられず、大変違和感を感じてしまう部分なのです。

 
しかし、何度も書いているとおり、こういった新自由主義的な自己啓発啓蒙書というのは、誤っているとか、必要ないという問題で批評出来ません。私の批判と、本書の存在意義はあくまで相対的であり、いつの時代も、当然現代も、そして明治という時代は特に必要だったのだろうと言えると思います。そして、その必要性は、国民全体のボトムアップ効果ではなく、ごく一部の優秀な人材を世に出し埋もれさせないという、ピックアップ効果であろうということも、前回書いたとおりです。

 
さて、この「自助論」の中の名言で、心に残った一文を取り上げてみます。それはあの有名なベートーベンが好んだとされる言葉です。

向上心に燃えた有能で勤勉な人間には、“ここで行き止まり”という柵は立てられない

 
ばらしい言葉ですね、新自由主義的な・・・・。ということで、ベートーベンを典型的な新自由主義者と認定します(笑)。私はこの言葉を読んだ時、ある人物のことを思い出しました。次の引用は、私が新自由主義者の典型だと感じている、最も有名なあのブラック企業の創業者の言葉です(Wikipediaより)。

よく『それは無理です』って最近の若い人達は言いますけど、たとえ無理なことだろうと、鼻血を出そうがブッ倒れようが、無理矢理にでも一週間やらせれば、それは無理じゃなくなるんです」「そこでやめてしまうから『無理』になってしまうんです。全力で走らせて、それを一週間続けさせれば、それは『無理』じゃなくなるんです

 
私は、ベートーベンの言葉と、ワタミさんの言葉(上記)の違いがわかりません。言っていることは同じではないでしょうか。Wikipediaによれば、このワタミさんの言葉はあるテレビ番組での発言のようで、ブラックのブラックたるゆえんの言葉のようにも感じますが、まさに若者達に対して、啓蒙のために、叱咤激励のつもりでの発言だとしたら、ベートーベンの言葉を引用しているこの「自助論」で取り上げられても全く不思議がない“名言”のようにも思います。つまり明治の青年達だったら奮い立った言葉なのかな?。要は、取り上げ方の問題だけだと思うのです。

 
私が考える、ブラック企業の問題点というのは、新自由主義批判の切り口と全く同じです。創業者たるワタミさんは、寝ずに働いて300万円の資金を貯め、ワタミを創業し300店舗を展開する企業へ成長させました。まさに、優秀で能力があって努力できる人そのものです。この、優秀な創業者の人間離れした努力や、無理を無理とは考えない、ここで行き止まりという柵は立てない、その力量は本当にすばらしいと思うのですが、従業員全てが、或は若者の全てが、決してまね出来るようなものではありません。こういう新自由主義者の、決してまねできない精神論を、ついていけるはずのない従業員に押しつける行為こそ、ブラック企業のブラックたるゆえんではないかと考えています。

 
「ワタミさん、あなたは24時間寝ずに、食事も摂らずに働けるのだろうけど、みんなあなたみたいには働けないんですよ」と私は言ってあげたいのですが、まあワタミさんは、「そんなこと言ったら、若者に夢を与えられなくなっちゃうじゃないか!」といって反論されるのかもしれませんね・・・。ブラック企業といって、いろんな会社が批判されていますが、従業員の向上心を持ち上げ、会社を成長させるというある意味当たり前のことがブラックとされているとも言えるのですから、やはりそれは程度問題、バランス感覚の問題ということになるのかもしれません。私が何度も書いている、新自由主義と新平等主義の綱引きですね。

 
ということで、ブラックのブラックたるゆえんが、ただの経費削減のためだけでないということを、私なりの切り口で言わせていただきました。一部、ブラック企業の擁護をしてしまったような気がしてご批判を受けそうな気もしますがご容赦下さい。

 
さて、次回は、典型的新自由主義者の見分け方をさらっと述べてみましょうか。その後は、新自由主義と新平等主義の綱引きについても書いてみようと思います。