▽ノートの書き方について解説しております
今年は冬らしい冬で、信州も信州らしい寒さが続きます。
「そうそう、信州の寒さって『痛い』んだよね~」と、
久しぶりの痛寒さにちょっと嬉しい深月です。
さてさて。
相変わらず仕事に励みつつ、残りの時間を推し活にあてながら、
最近「物語」について考えています。
結局、人って「物語」が欲しいんだよね。
「私はこういう人です」
「わたしはこういう人生を歩いている人です」ってね。
そしてね、人は大人になる過程で、
一旦自分の物語を手放して再構築をしなくちゃならない。
他者から与えられた物語じゃなくて、
自分で決めた自分だけの物語を選んで生きなくちゃならない。
これって設定変更で言うところの
「自分の持っている設定を明らかに見る→新しい設定を決める」だよねえ、と。
設定変更って言う言葉は新しいけれど
中身は昔からある「行きて還りし物語」とか「親殺しの物語」もそう。
うん、別に目新しい考え方でも何でもないんだよね。
今を生きる私たちにとって分かりやすい教えだってだけで。
という事を、こちらのシリーズを楽しみながらつらつら考えたり
考えたり感じたことを、短歌や詩に落とし込もうと四苦八苦しながら毎日を生きてます。
↑私が沼落ちしたミュージカルのダイジェスト。
この「パライソ」から「東京心覚」への流れは救いがあって本当に美しい物語。スキ。
このパライソは見れないけど、他のシリーズ作はDMMで1,700円~で見れるよ!
一緒にハマって感動としんどさにのた打ち回ろうぜ
ええと、そう。
それでね、心関係のブログとかSNSをすっぱり断って一月
本当に気持ちが軽くて幸せなんだって前の記事に書いたんだけど
色んな人のブログを読み漁ってた時期の私は、
無意識のうちに、ブログを書いた人の用意した「物語」に取り込まれてたんだなってつくづく思った。
だから、
いつも不足感があって、
何かに焦っているような気持がしてたんだなって。
「こうすれば幸せになれますよ」という物語は
「つまり今、あなたは幸せではないのです」という物語。
「この人はこんなに解放されました」という物語は
「つまりあなたが苦しいのは、間違っているからです」という物語。
誰かを救いたい人の放つ言葉は、
そういう構造をもう本質的に持ってしまっていて、
詠んでいるうちに無自覚の内に飲み込まれてしまいがち。
書いている本人は100%善意でしょうし、
それが悪いと言ってるわけじゃないよ。
そうじゃなくて、受取り手である読者である私たちが、
与えられた言葉、受け取った物語を
自分の中でちゃんとかみ砕いて昇華して
自分自身がどんな物語を生きるのかを選ばなくちゃねってそういう事。
そもそもが。
望むものが手に入らなくて苦しい、それがどうして悪いの?
今悩んでいる、そのままじゃどうしてだめなの?
あの人が嫌い、あの人を許せない、それじゃどうしてだめ?
我慢ばっかりしてる、それは本当に不幸なの?
そもそも私は、何を欲しいと思っているの?
その苦しみが解消されたら、何を手に入れられると思っているの?
ってさ、自分の目線で、自分自身に何度も問わなくちゃねって
そんな風に思うのですよ。
「そもそも」をちゃんと見る。
私たちは生きたくて生きてるし、愛したくて愛してる。
苦労したくて苦労してるし、差し出したくて差し出してる。
搾取、なんて世界中の誰からもされたりなんてしない。
我慢なんて、誰からも強要されてない。
……って事に気付こうね、というノートでの対話のしかたはこちら。
心のことに限らず、
今は情報社会で、色んな「物語」を押し付けようとする人で溢れている。
意味のない自粛をさせられてる、なんてのもそうだし
逆に自粛なんて意味ないよ、ってのも同じ。
社会的な「物語」についても、私たちは無意識に選ばされてる。
だからこそ、日々「自分を点検する」意識は必要だよね。
誰かの言葉、誰かが流布した物語じゃなくて
自分で調べる、知った事を元に考える、その上で自分で決める。
自分で決めたのなら、結果についてもちゃんと引き受けられる。
政府が、とかさ
会社が、とかさ
親が、とかさ
何かが起きた時に責任を押し付けられてそりゃ楽だけど
それは「自由」ではないなあって思う。
私は生きる事も死ぬことも誰かを殺す事すらも、自分の責任で選びたい。
と、そう思うのです。
まあさ、みんな、しんどくなったらネットの情報は遮断して
心を軽くする系のブログも見るのやめて
(心を軽くする系の言葉って、逆に自分を追い込まん?)
本を読んだらいいよ。ハウツーじゃない「物語」「小説」をね。
あとは映画とか、音楽とか聴いたり、自分で絵をかいたりとかさ。
幸せって「その瞬間に感じる事」の中にしかないから
「幸せになる方法」「幸せの形」を求めてる限り
多分、死ぬまでたどり着けないんだと思うよ。