流注の臨床
第1章 注意はどこへ流れるのか
私たちは通常、
何を考えているかを問題にする。
何を感じているかを問題にする。
何を信じているかを問題にする。
しかし、
その前に問い得ることがある。
それは、
注意はどこへ流れているのか
という問いである。
◆1|注意は人格より先に動いている
人は自分で考えているように思う。
自分で判断しているように思う。
しかし実際には、
注意の流れが先に存在する。
そして、
思考はそのあとを追いかけている。
例えば、
不安が強いとき、
注意は危険に向かって流れる。
すると、
世界は危険な場所に見える。
安心しているとき、
注意は可能性に向かって流れる。
すると、
同じ世界が違って見える。
変わったのは世界ではない。
まず、
注意の流れが変わったのである。
◆2|アジャセ王は何に苦しんだのか
フロイトのエディプス・コンプレックスでは、
問題は父と母のあいだに置かれる。

しかし古沢平作が注目したアジャセ王は、
もう少し複雑である。
意識は父に向かう。
母に向かう。
怒りに向かう。
罪悪感に向かう。
愛情に向かう。
そしてまた戻る。
固定されない。
流れている。
だからアジャセの苦しみは、
対象そのものではなく、
注意がどこへ流れているのかわからなくなった苦しみとも言える。
◆3|PTSDは注意の固定である
PTSDを見ていると、
注意は一つの場所へ引き寄せられている。
危険。
恐怖。
侵害。
喪失。
注意はそこへ戻る。
何度も戻る。
身体も戻る。
夢も戻る。
これは単なる記憶ではない。
一種の流注である。
しかし、
水が堰き止められているように、
流れ続けながら同じところを巡っている。
◆4|CPTSDでは流れそのものが変化する
CPTSDになると、
注意は単一の出来事ではなく、
生き方そのものに浸透する。
何かを読む。
人と話す。
未来を考える。
すると、
背景で通奏低音が鳴り続ける。
以前話題になった
身体で読むことができない
という感覚もここに関係している。
文字は読める。
意味もわかる。
しかし、
注意の流れが常に別の場所へ引っ張られている。
だから内容が身体に届かない。
◆5|注意は未来によって流れる
ここで重要なのは、
注意は過去だけによって決まるのではないということである。
私は最近、
ケ・セラ・セラについて考えていた。
未来の事実が現在を限定する。
すると、
注意もまた未来によって方向づけられることになる。
百尺竿頭の一歩もそうである。
まだ見ぬ未来が、
現在の注意を引っ張る。
だから私たちは、
まだ存在しないものによって生きている。
◆6|魂とは流れる注意の総体である
ここで仮説を述べてみたい。
私たちが魂と呼んでいるものは、
固定された実体ではない。
むしろ、
父へ。
母へ。
未来へ。
夢へ。
痛みへ。
希望へ。
絶えず流れ続ける注意の総体なのではないか。
そう考えると、
魂は「ある」ものではなく、
「流れている」ものになる。
◆まとめ
注意は単なる心理学的機能ではない。
それは魂の運動そのものである。
注意は流れる。
感情も流れる。
夢も流れる。
歴史も流れる。
そして魂も流れる。
流注の臨床が扱うのは、
症状ではなく、
その流れそのものなのである。