茨城県高萩市の花貫渓谷に、”名馬里ヶ淵”と呼ばれる場所がある。
渓谷の岩は表面がなめらかだ。長年にわたって、水流によって表面が削り取られて来たのだ。
それなら、岩は常に水流をかぶっていなければならないだろう。しかし水流をかぶっているのは水路や岩の下部に限られている。
かつては水位がいまよりも遥かに高かったのだろうか。あるいは水流を直接かぶらなくても、たとえ飛沫であっても長期的には岩の表面を摩滅させるのだろうか。
「なに撮ってるの?鳥?」。
渓谷沿いの道を歩いていると、不意に見知らぬ男から声をかけられた。
「まあ、見かけたものを適当に・・」。
男は渓谷の水流上に露出した岩を踏みながら向こう岸に渡り、やがて山の中に消えていった。その先に道などないのだが。
”名馬里ヶ淵”には伝説がある。
昔、近隣の村で飼われていた雌馬が、ただ一頭でこの渓谷に遊びに来ることがあった。
やがて雌馬は子馬を産んだのだが、不思議な子馬だった。家の梁や木に登って遊ぶのだ。
村人は「この子馬は、川に棲む大蛇の子だ」と恐れた。それなら村にどんな祟りがあるか、わからないだろう。
村人たちは子馬を渓谷の淵がある場所に連れてゆき、そこに沈めてしまった。そこが”名馬里ヶ淵”だ。
その日の内に空は真っ黒にかき曇り、大嵐がやってきた。村は大洪水によって一夜にして消滅してしまったのだ。
北関東から南東北にかけて、”馬力神”と刻まれた石碑をあちこちで見かける。石碑には日付も刻まれている。”明治”が多いが、”昭和”も散見される。
ほとんどの場合、石碑は見晴らしがよく、日当たりのよい場所にある。
昔、馬は家族同様に扱われ、人間と同じ屋根の下に暮らしていた。人と馬はともに働き、ともに生きていた。
馬が病気になると皆が心配した。馬が伏せってしまえば、子どもたちが周りに集まって、心配そうに看病した。
家畜ではなく家族なのだから、もし死んでしまったときには皆が悲しみ、丁重に葬った。
”馬力神”と刻まれた石碑は、死んでしまった馬の供養のための墓標なのだ。
名馬里ヶ淵伝説においても、馬は神格化された”馬力神”の属性を持っているだろう。対して、川の大蛇は龍神を指すだろう。
馬力神は人の側に立つ神と言えるが、龍神は人の側に立つ神ではない。
目を覚ましてしまえば、すべてを破壊し尽くすことすらあるのが、自然界の”理”である龍神だ。
真逆の存在である馬力神と龍神の間に生まれた不思議な子馬は、「人と自然界の調和」を象徴化した存在だったと言える。
村は龍神への恐怖心によって「調和」を自ら放棄したから滅ぼされたのだ。
滅多に人に出会うこともない名馬里ヶ淵の、岩場に沿った道を歩いた。もちろん、付近には人家もない。
もしその一帯に人が入り込まず長期間放置すれば、すべてが緑に埋め尽くされてしまうだろう。
しかしそんな野放図な緑も、淵を埋め尽くすことはできないのだ。
丸く摩耗した岩と岩の間、川砂が堆積して少しばかり広くなっている場所に、二十代と思える女性が、たった一人で腰を下ろしていた。
岩蔭だったから見えなかった。移動している内に不意にその姿が目に入ったのだ。
彼女はこちらを見て、「こんにちは」と笑顔で挨拶をしてきた。
そこは名馬里ヶ淵を見渡せる場所だった。岩蔭の陽だまりで淵を眺めながら、水が流れる音を聞いていたようだった。
初春の暖かな日、風は調和そのものを描き出している。そんな日には、子馬は淵の周りで遊び戯れているのだろう。
渓流の音が聞こえる中、龍神と馬力神との調和。人間の領域に穏やかな春の風は吹き続けている。