八溝山頂に古代からひろがる聖域 - 大子町 八溝嶺神社、日輪寺
ひさしぶりに大子町の八溝山に行った。
古代から山岳信仰の地だった八溝山の麓に、平地から山頂へと向かう「八溝線林道」の入り口がある。ここに聖域との境界となる鳥居がある。
鳥居付近には古くからの石碑がいくつも建っている。その中には「月読神」の名も見える。
今回、記事を二つに分けることにした。この記事は鳥居の外側と内側の、「内側」で撮影したものだ。
鳥居の「外側」での記事は次のリンク先になる。
八溝山麓にある滝の流れが描く絵 - 大子町、月待の滝 旧黒沢中学校
とてつもなく暑い中、晴れと雨とが交互にやってくる一日だった。
八溝山頂付近ではやたらと気合が入った豪雨に見舞われた。さらにトドメとばかりに、周囲が見渡せないほどの濃霧に覆われたりもした。
それらは「目に見えるもの」として捉えられるようなものではなく、「量として押し寄せてくるもの」と捉えるしかないようなものなのだ。
八溝山頂付近の寺社には八溝嶺神社、日輪寺、そうして月輪寺跡がある。麓にあった「月読神」の碑は、いまはない月輪寺に関わるものなのだろうか。
創建年が不明というほどに古い日輪寺には住職さんがおられるが、八溝山頂周辺の圧倒的に広大な森の中、常に人がいるのはここだけなのだ。
山頂にある八溝嶺神社は、周囲を土塁によって囲まれているため、神社全体は土塁の上からしか見ることができない。つまり、神社全体を見るなら屋根部分を見ることになる。
おそらく、建物が山頂に露出した状態では、直撃する風雨に長期的には耐えられないと考え、土塁によって防御する形にしたのだろうと思う。
いや、思うだけだが。
明治維新期の尊王攘夷運動で敗北した水戸天狗党の一隊、三百余名が追い詰められて、立て籠ったのがこの八溝嶺神社だった。この一隊はほとんど全滅した。
その後、天狗党の本隊は朝廷に自分たちの赤心を伝えようと京都に向かい、敦賀で終焉を迎えた。思いが届くことはなかったのだ。
彼らのあまりにも凶暴なやり方に共感する人は、いまも当時もほとんどいない。
いまとなってはただ、その狂気のごとき一途さが、各地の石碑の文字列となって霧の中に残されているだけなのだ。
このあたりにいたのはおおよそ1時間半ぐらいのものだったのだが、それぞれの写真は天候の急変もあって同じエリア、同じ時間帯での撮影とは思えないものになった。
そんな1時間半の間に見たものを、すべてをシャッフルしたいのだ。
なお、日輪寺と八溝嶺神社に関しては、次の記事に詳しい。
県最高峰に鎮座する 八溝嶺神社|由緒・御朱印・展望台(大子町)