石組みの残された城址の春 - 笠間市 笠間稲荷周辺、日立駅前の夜桜

 

 

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いよいよ賑わいが増してゆく季節になったが、それならと、笠間稲荷に行くことにした。笠間と水戸は比較的近隣にある。
ここに並ぶ土産物屋には、いつも賑やかな明るさを感じるのだ。
 
笠間稲荷のすぐ近くにある佐白山の山頂周辺もめぐった。
佐白山頂にはかつて笠間城があった。明治時代になって廃城になり、解体されたのだが、先の大震災でかなり傷んでしまったものの、いまも石組みは残されている。
天守閣があった場所には佐志能神社があり、そのために石組みだけは解体を免れたのだろうか。
佐白山はパワースポットではなく心霊スポットとして有名になってしまっているのだが。
 
水戸市に隣接する笠間市は、江戸時代、藩主が何回か入れ替わった。その中に浅野氏がいる。
浅野氏は浅野長直の代に赤穂藩に転封になったのだが、長直の孫があの有名な「忠臣蔵」の浅野内匠頭だ。
当然、浅野内匠頭にも水戸的なものは残っていただろうと思う。
 
また、家臣の大石氏は浅野長直の代に永代家老となり、ともに笠間から赤穂に移った。それなら、大石内蔵助にも水戸的なものは残っていただろうと思うのだ。
 
水戸というと、あまりにも血なまぐさい「桜田門外の変」や「水戸天狗党の乱」を引き起こしてきた。
そもそも、明治維新期の尊王攘夷運動の思想的原動力になったのが、水戸光圀の時代から形成され始めた国家観である「水戸学」なのだ。
 
有名な新撰組も発足当初は水戸藩士が主流を占めていた。
彼らがあまりにも横暴かつ狂暴だったので、京都では壬生狼(みぶろ)と呼ばれていたのだが、ともかく多くのことに関して、血の気の多さが際立つ。
 
ちなみに、戦国時代に覇をかけて戦った甲斐の武田氏の発祥の地は、水戸市に隣接する、ひたちなか市にある。
常陸の国の大名だった佐竹氏とは祖先が同じなのだが、佐竹氏は源頼朝、徳川家康という戦国二大覇者と対立し、関ヶ原以降、秋田に転封させられた。
 
水戸周辺は、歴史を揺るがすレベルの、武闘派の宝庫と言えるほどに気合が入っていると思うのだ。まったく、めまいがしそうだ。
「忠臣蔵」という江戸元禄の世を揺るがせた報復事件もまた、その顛末になんとなく納得させられてしまうのだ。
 
途中、常陸太田市の馬場八幡宮にも立ち寄った。
水戸藩による領内の八幡神社潰しは苛烈を極めた。百五社中、かろうじて残された四社のうちの一社が馬場八幡宮だ。
そこの枝垂れ桜は、まだ小さいがなんとも繊細で美しいのだ。
 
いや、写真記事なのに何の話だかわからなくなったが、それらの場所での写真を、日立駅前通りの夜桜の写真と合わせてシャッフルしよう。やたら盛りだくさんになるのだが。
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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