小雨まじりの日。ダム湖の横にある駐車場には、ほとんど車も停まっていない。
湿度が高い。遠くの山はかすかな靄に覆われている。
春以降、雨の日が多い。木々の緑は日々拡大してゆく。そうしてそこに生きる生き物たちもまた、その数を増やしてゆく。
空間はたとえば距離や面積、体積などによって数値化できるが、量としての空間が広がっている。
休息用のあずまや入口に小さな貼り紙があり、こう書かれている。
「猫にえさを与えないでください、のら猫が集まってきて困っています」
だがこの辺りは市街地ではなく、近くに人家は見当たらない。
それなら、そう簡単にここに集まって来れるわけでもないと思うのだが、放浪系の猫とか、いろいろいるのだろうか。
あずまや内にテーブルが一つ置かれている。テーブル面にはなぜか灰皿用の空き缶が四つも置かれている。
テーブルが一つなのに、灰皿が四つというのは多すぎる。
空き缶をよく見ると、なんと猫用の缶詰だ。おそらく「使用済み缶」をテーブル上に置き、一石二鳥を狙ったということなのだろう。
猫の鳴き声が聞こえてくる。藪の隙間から、比較的栄養状態のよさそうな猫が、こちらを見ている。
「遊ぶにゃ?」とでも言っているのだろうか。
猫語というものがあるようで、ときどき見かける。語尾に「にゃ」をつけるだけだから、難易度は低そうだにゃとか思ったりもする。
駐車場から、ダム湖の輪郭に沿った道を歩き始める。
いくつもの川が集まったダムだから、その輪郭線は「手のひら」を開いたように複雑だ。道は何度も橋を過ぎてゆく。
橋の上から、年々豊かに拡大してゆく濃密なまでの緑が、水面に覆いかぶさりつつあるのが見える。
急傾斜の土手のところどころには、水面近くまで下りてゆく階段がある。
「階段」というものは、おそらく人類が発明してきたものの中でも、文明への貢献度が極めて高い部類に入るだろう。
もともと人の往き来の少ないそれらの階段は、野草に埋もれそうだ。
それが埋もれることもなく、かろうじて「ここにあるよ」と自己主張ができているのは、釣人たちのおかげなのだ。
ネムノキが多い。指で押すと葉が閉じるはずだと思い、指で押してみる。
さっぱり閉じない。?。何度か押してみる。だが、頑ななまでに知らんふりだ。
帰宅後調べたところ、夜、葉が閉じるだけで、指で押して閉じるようなものではなかったらしい。
「徒労」という忌まわしい言葉が脳裏をかすめる。ネムノキにとっては、さぞやいい迷惑だったろう。
「まむしに注意」の立看板がある。なんでも、このあたりに出るそうだ。
いや、看板がないところにもけっこういるものだ。日当たりの良い岩の上などで日向ぼっこをしていたりする。
「蛇蝎の如く」という言葉があるが、その片側を担当しているのが蛇だから、嫌がられようはかなりのものだ。
だが日向ぼっこをしている本人というか本蛇は、もちろん自分の姿など知らないだろう。暖かければ、そこで気持ちが良くなって、眠ってしまっているだけなのだ。
緑に埋もれかけているような細い道に分け入ってゆくと、倒木が行く手を遮っている。
あらたに生まれ伸びてゆく木々と、倒れ、朽ちてゆく木々。そんな新陳代謝のくり返しによって森は拡大してゆく。
一本の木だけを見るなら、新芽となってこの世に生まれ、成長し、倒れ、朽ちてゆくという過程を経るのは明らかなのだが、一本の木によって成り立つ無常観の類は、要するにそれだけのことのように思える。
たとえ古い木が倒れても、新芽の息吹きは止まることなく湧き上がってゆく。
そんな、新芽と倒木とが斉唱しているかのような永遠性を見れば、ただ一本の木だけを見ての無常観には、いまとなっては古臭さばかりを感じてしまう。
指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニは、八十歳を過ぎて自分が年寄り臭くなったことに閉口して、こう言った。
「朝、洗面所で鏡を見ると、私は鏡の中の自分に向かって、こう叫んでしまうのだ。
お前はそんな姿を人前に晒して、恥ずかしいと思わんのか!このおいぼれめ!」。(^^;
つねに新たに生まれ、湧き上がってゆくもの。
深刻そうな人生論の本を読むよりも、はるかに重要なことを教えてくれるではないか。
長く歩き、何度も橋を渡り、階段を上り下りすれば、身体の熱と心拍とは高まってゆく。立ち止まれば、自分の鼓動がはっきりと感じられ始める。
そんなとき、ひとつ、はっきりすることがある。
新芽と倒木とが斉唱するかのように響かせている歌は、ただ頭の中で理解できるようなものではない。
理解のためには、自分自身の熱が、鼓動が、リズムが必要なのだ。
梅雨の合間の小雨まじりの日。春以降、雨が多く、ダム湖の水位は高い。
湿度が高い。遠くの山々は静かに靄に覆われてゆく。
駐車場に戻れば、さっきの猫の姿はもう見えない。
眠れる場所でも見つけたのだろうか。いつまでも待ってられないにゃ、とか言っているのだろう。
そうだ、こんな日は街に出て、久しぶりに甘い胡桃饅頭でも食べるか。ふと、そう思ったりもするのだ。