明治の画壇が見つめた海 - 北茨城市 五浦、高萩市 高戸小浜海岸
 
 
使用レンズ
 
 
まだ三月になったばかりなのに、もうすっかり春らしくなった。久しぶりに北茨城市の五浦(いづら)に行こうかと思った。
明治時代、当時の日本美術院が移転した五浦に、明治画壇を背負った岡倉天心や横山大観、菱田春草、木村武山、下村観山などが集まった。
 
五浦は海辺の街だ。美術院が移転した場所は、港に近い崖の上にある。
そこから見える海は、生が生に流れ転じてゆく姿を、止まることなく展開しているのだ。
 
かならずしも順風満帆ではなかった彼らの生活は、次第に困窮していった。
近くには漁港があり、魚が安く買えるにもかかわらず魚を買う金もなく、横山大観の回想によると、餓死しかけながら描き続けたそうだ。
燃え上がるような魂を持った彼らが見つめた海は、いまも変わることはないだろう。
 
 
洋の東西や芸術のジャンルを問わず、ある時代に圧倒的な作品群が爆発的に出現することがある。
たとえば横山大観は、もし彼がたった一人だけでいたとしたら、あのような作品群を残せたのだろうかと思うことがある。
目標を共有する仲間たちとの間に成り立つシナジーが、大きく作用したと思うのだ。
 
日本画家の安田靫彦は、当時の彼らの姿を、まるで禅堂の修行僧のようだったと述べている。
「圧倒的なシナジーの場」が成り立つことによって、個人の力は、「個人である限りは、到達することのできない領域」にまで至り、そこで、後代に残る傑作群が生みだされたのだろうと思うのだ。
 
たとえば江戸時代の元禄文化などもそうだ。「その時代が豊かで安定した時代だったからだ」というのは、もちろんそれもあるにしても、「才ある人々がその才以上のものを開花させた」という視点から見れば、本質的な説明とも思えないのだ。
 
 
五浦には岡倉天心の墓がある。小高い森の中にあるのだが墓標はなく、高さが1メートルにも足りない土饅頭があるだけだ。
天心は、自分の墓標は不要と考えたのだろうか。放置されればやがて木々が生い茂り、森の中に消えてしまうのだが。
 
天心の娘、高麗子(こまこ)の墓もまた、天心の墓のすぐ近くにある。やはり墓標はなく、天心の墓と形が同じだ。
横に墓碑があり、次のような内容の碑文が記されている。
 
戦災で東京にあった自宅が焼失し、彼女は夫とともに五浦にあった「天心漁荘」に仮住まいをした。
しかし夫は、その年の内に逝去してしまった。彼女は父、天心の墓を模した墓を作り、そこに夫を埋葬した。
その後は、すでに痛みが激しい状態だった天心漁荘に愛猫とともに住み、亡くなるまでの10年間、ふたつの墓を守った。享年72歳だった。
 
いま、彼女もまた、墓標のない墓に眠る。
ふと思う。普通なら、そこまではやらないだろう。それなら彼女にとって、岡倉天心という父はどのような存在だったのだろう。
墓碑には、天心は彼女を「こまちー」と呼んでかわいがっていたと記されているのだが。
 
 
ひさしぶりに、春の陽射しの中にある彼らのお墓にも立ち寄ろう。
そうして、帰路には高萩市の高戸海岸に立ち寄ろう。ここにも岩場がある。断崖のあちこちに洞窟があり、祠も置かれている。
 
洞窟がなんのために掘られたものなのか、よくわからない。
漁の安全祈願の祭祀のためなのだろうか、時間をかけて手作業で掘られたものだろうと思うと、目的が分からないことが不思議なのだ。