YouTube用の音楽動画ファイルを作っていると、その音楽をよく知っているつもりだったのに、まったく気が付いていなかったことがいろいろと出てくる。
なぜ、作曲家はこのようなメロディを思いついたのだろう。なぜ、こんな情景が似あうのだろう。
しばしばそう感じる。
演奏家は演奏することによって、その楽譜に書き込まれた世界を、作曲家と共有するのだろう。
概念が演奏によって形あるものになれば、共有は演奏家と作曲家だけのものではなくなり、聴く人にまで拡大し共有されていく。
そうして共有は、時代を、民族を、言語を、宗教を超えいく。
それなら、共有される世界とはなんなのだろう。
最初からあるものなのだろう。最初からあり、人が最初からそれを知っているから、共有が可能なのだろう。
おなじものが、人それぞれの「内なる意識の水面」にうつり、そこでそれは共有される。
木の枝にある無数の水滴それぞれに月がうつり、それでもなお月はひとつであり、しかし水滴にうつっている無数の月は「作り物」の月ではなく、それらもまたすべて月なのだ。
共有とは、ひとつの月が人それぞれの内にうつり、人の世界全体としては無数にうつっているということなのだ。
ランボーたち象徴派の詩人たちが言った「ある事柄を、別の事柄によって表現する」とは、もし人が水滴にうつる月をなんらかの手段で表現するなら、あらゆる手段においてそれが可能なのだということと同じ意味になる。
それなら、音楽に映像を重ねることもできるだろう。
それは、音楽に描き出されている世界の、映像による共有だ。
YouTubeにアップロードした動画で、オーバーラップさせた写真それぞれの撮影時期は、三十年とかそれ以上の開きがあることもある。
しかし、融合し、時間軸を超えて同じものになる。
それらの写真を撮影した時、ひとりでいたのかもしれないし、誰かといたのかもしれない。
世界のどこかで、誰かがアップロード動画を見たとき、たとえそれがひとりでいたときに撮影した写真であっても、いま、それを見ている人が一緒にいることになる。時間軸を超えて融合し、同じものになる。
たとえ仕上がりが稚拙なものであっても、共有にかかわる感覚を求めるかぎり、それは独特の熱をあたえてくれるのだ。
TCHAIKOVSKY - "Symphony No.5 - Finale"
- RUDOLF KEMPE - [Vinyl record]
なぜ、作曲家はこのようなメロディを思いついたのだろう。なぜ、こんな情景が似あうのだろう。
しばしばそう感じる。
演奏家は演奏することによって、その楽譜に書き込まれた世界を、作曲家と共有するのだろう。
概念が演奏によって形あるものになれば、共有は演奏家と作曲家だけのものではなくなり、聴く人にまで拡大し共有されていく。
そうして共有は、時代を、民族を、言語を、宗教を超えいく。
それなら、共有される世界とはなんなのだろう。
最初からあるものなのだろう。最初からあり、人が最初からそれを知っているから、共有が可能なのだろう。
おなじものが、人それぞれの「内なる意識の水面」にうつり、そこでそれは共有される。
木の枝にある無数の水滴それぞれに月がうつり、それでもなお月はひとつであり、しかし水滴にうつっている無数の月は「作り物」の月ではなく、それらもまたすべて月なのだ。
共有とは、ひとつの月が人それぞれの内にうつり、人の世界全体としては無数にうつっているということなのだ。
ランボーたち象徴派の詩人たちが言った「ある事柄を、別の事柄によって表現する」とは、もし人が水滴にうつる月をなんらかの手段で表現するなら、あらゆる手段においてそれが可能なのだということと同じ意味になる。
それなら、音楽に映像を重ねることもできるだろう。
それは、音楽に描き出されている世界の、映像による共有だ。
YouTubeにアップロードした動画で、オーバーラップさせた写真それぞれの撮影時期は、三十年とかそれ以上の開きがあることもある。
しかし、融合し、時間軸を超えて同じものになる。
それらの写真を撮影した時、ひとりでいたのかもしれないし、誰かといたのかもしれない。
世界のどこかで、誰かがアップロード動画を見たとき、たとえそれがひとりでいたときに撮影した写真であっても、いま、それを見ている人が一緒にいることになる。時間軸を超えて融合し、同じものになる。
たとえ仕上がりが稚拙なものであっても、共有にかかわる感覚を求めるかぎり、それは独特の熱をあたえてくれるのだ。
TCHAIKOVSKY - "Symphony No.5 - Finale"
- RUDOLF KEMPE - [Vinyl record]
