ピンホール写真というものがある。
薄板に小さな針穴をあけたものをレンズの代りにして、針穴を通る光によって結像させた写真を言う。
ガラスレンズは使わない。「針穴だけ」なのだ。
暗い部屋の中で、壁に節穴があれば、そこから入ってくる光が、反対側の壁に外の風景を結像させるのと同じ原理だ。
もちろん、シャープなものではない。
あまりにも淡く、結像しているものがなんなのか、わかる程度のものなのだ。
偶然に発見された現象だろう。しかしその現象の発見は、どれほど神秘的で胸を躍らせるものだっただろう。
休日の午後、昔よく知っていた道を歩いた。
人の生活空間は静かだ。にぎわっているのは、人の生活そのものがある空間ではなく、別の空間なのかもしれない。
ここは、求め、手に入れようとするものでにぎわう場所ではないだろう。
それは別の場所にある。ここは人の生活空間なのだ。
何年ぶりにこの道を通るのだろう。
森があった場所に家々はあらたに建ち並び、あらたな標識は立ち、境界を示す柵はあらたな道に沿って、光を受けている。
影は道に差し、通り過ぎる分岐は初夏の日差しを受けている。
分岐のどちらを選んでもかまわない。今日は休日なのだ。
くりかえしやって来る分岐は、たとえ選択のミスがあったとしても、深刻な結果をもたらしはしない。
そう、今日は休日なのだ。
起伏の多い道。展望はゆるやかに開け、ゆるやかに閉ざされ、そこにいつでも交錯する光と影。
JS Bach (BWV 777) - Jordi Franch Parella
楽の音が聞こえる。風の音、鳥たちの歌に重なり、楽の音が聞こえてくる。
時代を国境を言語を越え、定義された境界を越え、楽の音が聞こえてくる。
光と影とのコントラストはひくく、影すらも、ただ優しげに微笑んでいる。
すでに立夏の日を過ぎ、春は遠ざかるか。
花々はすでに色褪せ、落ちはじめている。なにも止まることなく、いまは結実の準備がはじまっているのだ。
道。そこで微笑みかけてくる、結実のための色彩。
古い工場があった場所に、いまは住宅街が広がっている。離れた場所に住み、それすら知らずにいた。
あの当時、夜に、古い工場の高い場所にある照明が不思議だった。
見えぬ場所にもある営為。立ち止まっている間にも、止まることなく織りなされている営為。
初夏の風の中、緑は濃密になっていく。
路面は緑に囲まれ、使われなくなった道は緑に埋もれていくのだろう。
通る人がいなくなった分岐もまた、そのときには緑に埋もれていくのだろう。
初夏の午後の道をただ歩き、それなら語ることもなく歩いているのだろうか。
だが語らいは、どこにも満ちているではないか。
光と影は人懐こく微笑みかけ、初夏のこの日、いっさいが語りあっているではないか。
遠く、海からの風吹く中に、ふたたび夏はきぬ。
花々よ、無垢なる野性よ、光と影とをまとって、ふたたび夏はきぬ。
J.S. Bach: Invention No. 6 in E major, BWV 777
休日の午後、ミラーレスをピンホールカメラとしたものを持って、昔よく知っていた道を歩いた。
付帯機材は、光を淡く拡散させるタイプのフィルターだけだった。
この手の付帯機材は弊害も大きいのだ。だが弊害を理由に避けようとも思わなかった。
なんとなく、ピンホール特有のアウトフォーカスの絵がほしかった。
かつてピンホール写真は、カメラを三脚に乗せ、別付けのファインダーで構図を決めなければならなかった。
光が弱すぎて、一眼レフではファインダー像が見えなかったのだ。もちろん、長時間露光が必要だった。
ピンホールカメラでスナップなど考えられなかった。
いまでは、カメラは手持ちのまま、三脚も使わずに気軽にスナップ撮影が可能だ。
ISO感度の実用域が10万を越えるカメラが登場するにいたって、それが可能になったのだ。
「科学のタマゴ(学研)」付録のピンホール部を使っての撮影。