夏でも山頂付近に万年雪が残る山。
もうずいぶん昔のこと、その山塊の北斜面側の、広くゆるやかな裾野を縫うように抜ける道を走行した。
地図には、冬季通行止めと書かれている道だった。
広く明るい山裾の領域にある道。
ゆるく高低差のある道の高い側から、平地の展望は、眼前のかなたにまで明るく開けた。
風の中の短い夏。
木々は緑に染め上げられ、だが「濃密な」という表現の似合わない、明るい緑がそこには広がっていた。
夏の羽虫はシールドに当たり、後ろへとはじかれていった。
よく晴れた日だったが、ときおり雲の影によって、シールド越しに直射していた陽光が翳った。
だが、ここだけなのだ。雲の影の中に入ったのだ。
かなたには陽光を受ける明るい緑が広がっていた。光る川の流れが見えた。
雲の影は静かに移動し、光を受けている場所も静かに移動していった。
雲は高層の風に送られ、地表の雲の影は高層の風に送られ、光が当たる場所は、山裾の広い空間を静かに移動していった。
短い夏。その中を私は走った。
ところどころに集落が点在していた。冬季には閉鎖される道に沿った集落だ。
走行する道の高低によって、点在する集落の姿はかなたに見え隠れした。
その姿は不思議な静けさの中にあった。
そんな集落もまた、雲の影の中にあった。
雲の影は静かに移動していった。集落の家々が、光の中に浮かび上がるように見える瞬間があった。
そこにも人の姿はあった。高層の風の下に、人の姿はあった。
静かな家の窓に反射する光が、なにか不思議なものに思えた。
止まることのない走行中、不意に視界に入るもの。
そんなとき、私はふと、自分が別の世界に紛れ込んだような錯覚をした。
短い夏。その中を私は走った。
雲の影、山塊の北斜面の、広い裾野にある集落。
山塊のかなた、山頂付近には万年雪があり、しかし山裾の道からそれは見えない。
雲の影は、そんな雪も知るのだろう。
そんな雪の領域を覆い、雪の領域を知り、高層の風に送られ、雲の影は地表の高低にかかわらず、静かに移動していく。
はじめて通る道、そこを知っていたわけでもなく、そこに住んだことがあるわけでもなく、しかし私はそこでしばしば既視感にとらわれていた。
短い夏。その中を私は走った。
ずいぶん昔のことだ。
そこには、そのときただ一度しか行っていない。すでにすっかり忘れていたはずだった。
なぜ今日、その道を不意に思い出したのだろう。
かなたにまで展望の開けた、広く明るい山裾。雲の影。
ところどころに点在する、冬には道が閉ざされる静かな集落。
既視感。
それは、「知っている」ということなのだろうか。すでに「描き出されている」ということなのだろうか。
今朝、未明には強い雨が降り、窓からは冷気が吹き込んでいた。
冷えてしまった身体。それで目が覚めた、外はまだ薄暗かった。
だが日が出てからは晴れ上がり、昼には、ふたたび蒸し暑くなった。
なぜ今日、その道を不意に思い出したのだろうか。
広く、明るく、短い夏の中にあるその道を。
高層の風に送られる雲の影の中に点在する、集落の静かな姿を。
Obscured by Clouds - 01 - Obscured by Clouds - Pink Floyd
◆リンク
猛禽類は天空に弧を描き - 小雨まじりの午後に ■
人の内なる体系 - 太陽系がしめすもの
嵐と対にある静寂 - 行為の疲弊
夜の雨、かなたから響くサイレン
田中冬二 - 描かれる言葉 描かれる思い
もうずいぶん昔のこと、その山塊の北斜面側の、広くゆるやかな裾野を縫うように抜ける道を走行した。
地図には、冬季通行止めと書かれている道だった。
広く明るい山裾の領域にある道。
ゆるく高低差のある道の高い側から、平地の展望は、眼前のかなたにまで明るく開けた。
風の中の短い夏。
木々は緑に染め上げられ、だが「濃密な」という表現の似合わない、明るい緑がそこには広がっていた。
夏の羽虫はシールドに当たり、後ろへとはじかれていった。
よく晴れた日だったが、ときおり雲の影によって、シールド越しに直射していた陽光が翳った。
だが、ここだけなのだ。雲の影の中に入ったのだ。
かなたには陽光を受ける明るい緑が広がっていた。光る川の流れが見えた。
雲の影は静かに移動し、光を受けている場所も静かに移動していった。
雲は高層の風に送られ、地表の雲の影は高層の風に送られ、光が当たる場所は、山裾の広い空間を静かに移動していった。
短い夏。その中を私は走った。
ところどころに集落が点在していた。冬季には閉鎖される道に沿った集落だ。
走行する道の高低によって、点在する集落の姿はかなたに見え隠れした。
その姿は不思議な静けさの中にあった。
そんな集落もまた、雲の影の中にあった。
雲の影は静かに移動していった。集落の家々が、光の中に浮かび上がるように見える瞬間があった。
そこにも人の姿はあった。高層の風の下に、人の姿はあった。
静かな家の窓に反射する光が、なにか不思議なものに思えた。
止まることのない走行中、不意に視界に入るもの。
そんなとき、私はふと、自分が別の世界に紛れ込んだような錯覚をした。
短い夏。その中を私は走った。
雲の影、山塊の北斜面の、広い裾野にある集落。
山塊のかなた、山頂付近には万年雪があり、しかし山裾の道からそれは見えない。
雲の影は、そんな雪も知るのだろう。
そんな雪の領域を覆い、雪の領域を知り、高層の風に送られ、雲の影は地表の高低にかかわらず、静かに移動していく。
はじめて通る道、そこを知っていたわけでもなく、そこに住んだことがあるわけでもなく、しかし私はそこでしばしば既視感にとらわれていた。
短い夏。その中を私は走った。
ずいぶん昔のことだ。
そこには、そのときただ一度しか行っていない。すでにすっかり忘れていたはずだった。
なぜ今日、その道を不意に思い出したのだろう。
かなたにまで展望の開けた、広く明るい山裾。雲の影。
ところどころに点在する、冬には道が閉ざされる静かな集落。
既視感。
それは、「知っている」ということなのだろうか。すでに「描き出されている」ということなのだろうか。
今朝、未明には強い雨が降り、窓からは冷気が吹き込んでいた。
冷えてしまった身体。それで目が覚めた、外はまだ薄暗かった。
だが日が出てからは晴れ上がり、昼には、ふたたび蒸し暑くなった。
なぜ今日、その道を不意に思い出したのだろうか。
広く、明るく、短い夏の中にあるその道を。
高層の風に送られる雲の影の中に点在する、集落の静かな姿を。

Obscured by Clouds - 01 - Obscured by Clouds - Pink Floyd
◆リンク
猛禽類は天空に弧を描き - 小雨まじりの午後に ■
人の内なる体系 - 太陽系がしめすもの
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夜の雨、かなたから響くサイレン
田中冬二 - 描かれる言葉 描かれる思い