ずいぶん昔に撮った尾瀬の、古いポジフィルムが出てきた。
これをNIKONのES-1 でネガフィルムに複写し、次に、近所のショップでデジタルデータ化した。
画質は劣化してしまっているのだが、そのときの雰囲気はそれなりに残っていると思う。
この年は、同じ年の夏秋と、二回、尾瀬に行ったのだが、記事を二つに分け、こちらには秋に撮影したものを集めた。
夏の撮影は下記のリンク先だ。
遥かなる尾瀬。
いま、写真を見て、ここに自分がいたのかと思うと、なにか不思議な気がする。本当に美しい場所だと思う。
この三本の木は、森林からは離れ、なにを思っているのだろうか。
気候の厳しい土地なのだが、すんなりと育った木々は、彼らの歌を斉唱しているかのようだ。
寒冷地では紅葉は一気に進む。撮影したのは十月の半ばなのだ。
朝の尾瀬沼だ。小雨の中、なにか外国にでも来たかのような錯覚を起こしてしまいそうだ。
夕暮れ時の長蔵小屋だ。ここに宿泊した。いまはもう、すっかり変わってしまっているのだろうか。
雨の中、木々は神秘的にその姿を浮かび上がらせている。
秋の湿原だ。尾瀬沼から燧ヶ岳を一周すると、少しの区間、尾瀬ヶ原湿原を通る。
遠くにいる人が、秋の湿原と語らっているかのように見える。
長蔵小屋がある周辺だ。手付かずの自然と人の生活が、違和感もなくここにはある。
通りすがりに、ふと見た木に紅葉が絡みついていた。この木の紅葉ではないのだ。
雨の中の森。色彩と霧によるシンフォニーが聞こえてくるようだ。
なにか、龍がいまにもここから翔び立っていきそうな気がしてしまうから不思議だ。
木々の中にある山小屋と窓明かり。
きゃしゃなガラス窓が、人の世界と自然界を分けているかのようだ。
朝の尾瀬沼だ。冬を迎える前の、最後の色彩がここにある。
茂る木が、なんとなく、いにしえの賢者か哲学者に思えてしまう。
その横にある木道を、どれほど多くの人々が歩いて行ったのだろうか。
これも長蔵小屋だ。このときの撮影は、バブル景気が華やかなりし頃のものなのなのだが、ここには素朴なままの静けさだけがあった。
長蔵小屋近くの、朝の尾瀬沼だ。岸辺は、ゆっくりと少しずつ湿原化しているのだろうか、時間や約束とは別の領域で。
雨の中に浮かび上がる木立。
ここでもまた、木々がなにかを話しあっている声が聞こえてくるかのようだ。
雨の夕暮れ時の、長蔵小屋近くの尾瀬沼だ。
色彩はブルー系の中に沈んでゆく。それが不思議な「眠り」というものを感じさせる。
さまざまな形の木々が、まるで家族のようだ。
古来、日本人は森に木霊を見てきたが、木霊とは、生きるものの気配なのだろうか。
Josquin des Pres - "Missa Pange Lingua" - Martin Behrmann
: ジョスカン・デ・プレ - ”ミサ・パンジェ・リングァ” -[ Vinyl ]