ある山里に、きこりが住んでいた。
山は木々が豊かだった。きこりの家は、そんな木々によって、代々生計を立ててきたのだ。


彼の斧は、彼の父からゆずり受けたものだった。つまり彼にとっては、「最初からあったもの」だった。

斧を持って山に入る彼は、良木を見いだすのにすぐれていた。
べつに、誰から学んだわけでもなかった。
斧を持ち、山に入ると彼は、ただ導かれるように歩くだけだった。だがそこにはいつでも、求めている木があったのだ。

大木を前に、どこに斧を入れるかも彼にはすぐにわかった。それもまた誰から学んだことでもなかった。
「ここだ」。
大木を前に、彼はただ導かれるように、幹に斧を打ち込んだのだ。
そうして斧を打ち込む瞬間、彼の心はくりかえし、無になった。


仲間のきこりたちは、いつも彼を頼りにした。
斧を持ち山を歩く彼は、いつでも山の声が聞こえるような気がしていた。
その声さえ聞いていれば、彼は、自分が山で生きていけることを確信すらしていた。



長雨の後のある日。すっかり天気はよくなっていた。
だが、川は濁流となって大きく広がっていた。彼がふだん歩く川沿いの道は、その所在も分からなくなっていた。

彼は崖の上の道を選んだ。
山壁に沿う道のはるか下方に、濁流が渦巻くように咆哮していた。
彼がいる直下は、おだやかな時期には豊かな淵となっている個所だ。だがいま、濁流に呑まれた淵は、その深さすら定かではなかった。
そう、濁流の咆哮の中にある淵は、すでに「深さ」という数値で捉えられるようなものではなくなっていたのだ。

「すこし休もう」。
彼は思った。斧を横に置き、濡れていない岩に、彼は腰をおろした。

だが長雨の後、山壁に沿った地盤はすっかり脆弱になっていた。
岩が、ゆるやかに重たく傾いた。
岩がはるか下方の渦巻く淵にむかって崩れ落ちて行くのと、ほとんど同時に彼は
岩から飛びのいていた。

彼は崖から落ちなかった。だが彼は絶句していた。
岩の後に、彼の斧がゆっくりと落下して行くのが見えたのだ。彼はただ、斧が落下して行くのを見つめているしかなかった。

やがて、深さすら定かではない渦巻く濁流の中に、岩も、そうして斧も呑み込まれて行った。
濁流の音はすさまじく大きく、岩が落下する音はかき消され、彼に聞こえはしなかった。
そんな一連の光景は、彼には、不思議に静かなものにすら思えていた。


ふいに彼は、彼自身に訪れた異変に気がついた。
聞こえないのだ。
斧があったときには聞こえていた山の声が。
知らず、いつでも自分を導いていたはずの声が。
いつでも聞こえつづけていたはずの声が。いつでも自分を生かしていたはずの声が。

とつぜん彼は叫んだ。まるで、断末魔の野生動物のように。
意味不明の声を彼は上げ続けた。のどが枯れても彼は叫び続けた。

彼にとって斧がなんであったのか、いきなりわかったのだ。
それは、失ってはじめてわかることだった。
失うことによって、「価値」というものは、そのいっさいを明らかにするのか。
彼はただ叫び続けた。彼にはそれしかできなかった。



そんな彼の前に、雨上がりの陽光とは別の光がさした。それはどこかから降りてくるような不思議な光だった。
きこりはそこに、なにかがあるのを感じた。
「いる」のではない、「ある」のだ。だがきこりには、なにも見えはしなかった。
それでもきこりは、それが「道案内をするもの」だと感じていた。

光ははっきりと彼に話しかけた。
「きみは大切なものを失ったのか?」。
きこりは答えた。
「斧を崖の下に落としてしまいました。私にとっては大切な斧だったのです」。

「大切な斧?大切なものなら、それは黄金の斧なのか?白銀の斧なのか?きみが失ったものは、それほどまでに素晴しいものだったのだろう」。

「いいえ、私が落としたのは鉄の斧なのです」。
「鉄の斧?それがきみにとって、大切なものだったのか?」。
「はい。失ってから気がついたのです。私にとって私の斧は、黄金であり白銀でもあるものだったのです」。

「きみの叫ぶ声が伝わってきた。鉄の斧を失ったきみの叫ぶ声が」。
「叫ぶしかできないのです・・・いまもまだ、叫びたい気持ちで一杯なのです」。

「なぜなのか?きみは、鉄の斧しか失ってはいない」。
「そうです、しかし私はすべてを失ってしまったのです。
もう私には、なにも聞こえなくなってしまいました。なにも見えなくなってしまいました。なにもわからなくなってしまいました。
もう私には、なにもありはしないのです」。

「それがきみにとっての鉄の斧なのか。もし失えば、叫びつづけるほどの」。
「そうです。あの斧は、私とは一体と言ってもよいほどのものでした。あの斧は私そのものだったのです」。

きこりはふと、その光が微笑んだような気がした。

「きみは、きみのすべてである鉄の斧に、黄金や白銀を見い出した。
もしきみが鉄の斧を否定して、黄金や白銀の斧だけを求めたなら、きみはなにも得ることはできなかった。

だがきみは、現実である鉄の斧とともにあった。現実である鉄の斧を否定しなかったきみは、現実を歪めることなく肯定したきみなのだ。

きみが鉄の斧に見いだした黄金や白銀は、すべてきみのものだ。
私はそれを保証し、それをきみに示す。

きみが鉄の斧を忘れない限り、黄金も白銀も、かならずきみとともにある。
私はいっさいを保証し、それをきみに与える」。


きこりはただ当惑して言った。
「私にはなにがなんだか・・・いったいあなたは・・・?」

だが光は、自らを語ることなく消えていった。


崖下には変わることなく、濁流は淵を呑み込んで咆哮し、逆巻いていた。

彼はふと感じた。
もまた自分を見つめている。覗き込めば、自分はそこに呑み込まれてしまうのかもしれない。
そう、深さという数値で測ることができないがゆえに。

そのとき彼は、なにかから呼びかけられたような気がした。
呼びかけられた方向を見ると、そこには、彼がよく知った斧が置かれていた。彼が失った鉄の斧だった。
そうして鉄の斧に添うように、黄金の斧、白銀の斧もまた。

きこりは、よく慣れた彼の鉄の斧を手にした。彼がよく知る感触。そうしてずしりとした重さ。
ふいに山々の声が、まるで轟くかのように、ふたたび響いてきた。

彼は、自分が「生」を取り戻したことを、そうして、「淵に呑み込まれない自分」を取り戻したことを確信した。
鉄の斧を手にする彼の目に、黄金の斧と白銀の斧は、濁流の音が響く中に、さらに冴え冴えと輝いているかのようだった。


黄金と白銀の斧は、ここに置いていこう。私が生きる山の中に。
これらはいつでもここにあるだろう。測ることのできない濁流を前に、これらはいつでもこの場所に置かれているだろう。
きこりはそう感じていた。




 

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