私がまだ小学生の低学年だったときのこと。
友人の家に遊びに行くと、彼の祖父はいつも私たちに話しかけてくれた。
私たちはまったくの子どもなのに、彼の話の内容は、私たちを子どもとは考えていないかのようなものだった。

彼は、私たちを大人として扱ったわけではない。
彼の言葉は「大人向けの言葉」ではなかった。だが、「子ども向けの言葉」でもなかった。
いつも私たちは、なんとなくではあっても、彼の言葉を理解できたのだ。


それはお正月のことだった。
日々は過ぎ去り、しかし循環して戻ってくるお正月というもの。
子ども心に、お正月とは家の外の通りでさえもが、不思議なほどに静かで明るい印象があった。

友人の家に遊びに行くと、彼の祖父は私たちに、盃に注がれた少しばかりのお酒をすすめた。
だが私たちは小学校低学年の子どもである。友人のお母さんがそれを止めようとした。


彼は言った。
お正月は神様といる時なんだから、ほんの少しならかまわないのだ。
お酒は、神様に捧げるものなんだ。そうして、神様からいただいたお酒は悪いものではない。
自分のために飲むお酒には、悪いものが入るのだ。


飲んだのは、ほんの一口ほどだった。子どもの私には、まずい味だった。
だが、神様からいただいたという言葉が、私には不思議だった。

「神様からいただいた」という言葉には、文字通りに「神様からいただいた」という意味があるだろう。
当然と言えば当然なのだが、しかしそれにもかかわらず、「わからない言葉」というものがある。

子どもの私が感じた「その言葉への不思議」が、わからないことがそこにあることを示すのだ。

酒は人が作ったものだ。もちろん、人がそれを飲むために。
だが、人が作るものとは、「なにかに捧げるために」作られるものなのか。
「捧げ、そうしていただくもの」なのか。

日本的な意味での「道」において、「捧げるもの」と「いただくもの」は、かならずかかわっている。
たとえば「刀剣」においても。たとえば力士の土俵入りにおいてもである。
ここに、日本文化を本質的に示すものがある。

一口飲んで私は、まずいと思った。
だが私は、自分の味覚で友人の祖父の言葉を否定できなかった。
「自分のために飲むお酒には、悪いものが入るのだ」。


まずいと思ったにもかかわらず、彼の言葉は、私の内に残っていた。
お正月という、繰り返し循環し戻ってくる、不思議に明るく静かな時間帯の印象とともに。



イメージ 1




◆リンク
共有 「個」の地平の先にあるもの - 日蓮の胡麻だんご
理が尽くされない領域 - S先生のこと
見えない意味にうなずくとき
村祭りでの偶然の邂逅 - 紅蓮の夜空
析出していくもの - 結晶性知能
相違というもの - 強きもの、そうして優しきもの
【物語】 金の斧と銀の斧 - 鉄の斧との境界
月日は百代の過客にして - 芭蕉の時間軸と旅