近隣の工場に、環境関連の巡視に行ったときのこと。
その工場は幹線道路から奥まった場所にあった。私はそれまで、そこに工場があることを知らなかった。
幹線道路から、その工場は見えなかったのだ。
私はその幹線道路はよく通っていた。しかし、その工場があることを知らなかったのだ。

工場建屋横の側溝に沿って、十メートルほどの間隔で、大きめの箱が置かれていた。
「この箱はなんですか?」。私は工場の担当者に聞いた。

「この側溝の先に、オイルタンクがあります。
タンク周りにも法規制に従った防壁があるのですが、それでも万が一、事故があって、あふれたオイルが側溝に入ったりすれば、側溝は傾斜しているので、工場の外に流れ出してしまう危険性があるのです。
そんな時には、この箱の中の吸収剤を側溝に落として、オイルの流出を止めるのです」。

「たくさん置かれていますが・・・いままでにオイル漏れはあったのですか?」
「いえ・・・私が知る限りではゼロです。十年以上の間、ゼロです」。

箱の横には看板が立てられ、万が一のオイル漏れの際の対処手順、そうして緊急時の連絡先が書かれていた。
「いまだかつて使ったことがないもの」に対してである。

工場横の土手の下方には川が流れていた。
三~四人のこどもたちが、そこで遊んでいた。膝まで川に浸かり、川の中を覗き込んでいた。
工場の担当者は、その川には小さなカニもいると言っていた。


海外赴任組が帰国すると、現地の話をいろいろと聞いたりする。
とくに最近では、ニュースで報じられている以上に、世界レベルで環境の悪化が深刻になっているという話もしばしば出てくる。
環境関連の会議の場でも、そんな話が出ることがある。

「われわれは、なんとしてでもこれ以上の悪化を阻止するぞ」。

巡視の帰路、同行した仲間と話した。
「そう言えば、近頃はどこの工場に行っても、昔はよく貼ってあったスローガンを見ないな」。
「スローガン?」。
「ああ、意識改革とか、新しい考え方で挑戦しようとかだ」。
「そう言えば見ないな。そんなものを貼ったところで、気休めなのが分かってきたのだろう」。
「おいおい、あの頃は、気休めだなんて言うと、ひねくれ者扱いだったぞ」。
「あはは。しかし、ひねくれようがなんだろうが、掛け声は掛け声に過ぎないのさ。気休めは気休めだ」。
「使わないかもしれない箱を置くことのほうが重要なことが分かってきたんだろうな」。
「使わなければ必要性に気がつかない。それを見つけ出すのは至難の業だろう。しかし、川のカニも子どもも、絶滅させるわけには行かないだろう」。
「ああ、なにがあろうとも阻止だ」。

「貼られたスローガン」というもの。
もちろん、それは否定されるべきものではないだろう。
しかし、スローガンを考え、それを壁に貼り出して満足するなら、それは「楽なこと」なのだ。
楽だからこそ、それだけではなにも守れない。それは「書かれただけの言葉」に過ぎないのだ。

見えない場所にあった工場。そこにいる人々。そこで働いている人々。
見えず、しかし守られているものがある。そこにリアルはある。

「なんとしてでも阻止するぞ」。
そこにある言葉なき言葉。そうして、そこにある日々というもの。寡黙な日常というもの。そこにこそ、確信できるリアルはある。

「語られる人生訓」は、現実化されてはじめて存在できる。そうして現実化される場は、いつでも、かならず、いまここにある。



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