ゲーテに次のような言葉がある。

絶望できない者は、生きている必要はない。


絶望ゆえに人は進歩するものだろう。懸命に生きてきた者とは、あるいはなんらかの絶望を知る者でもあるだろう。
それなら、一見この言葉は正当なものに思える。

だがここに、ロジックの迷宮がある。
絶望とは、自らの存在理由を喪失した状態を指す。
「失われた望み」というもの。
自分の全存在をかけた望みが失われれば、自らの存在理由もまた見失われてしまうだろう。

そこには圧倒的な絶望があり、あるいはそのために自らの命を絶ってしまう者もいるかもしれない。
この場合、「絶望した者」こそが、「生きている必要はない」と自らに対して考える側に立つのである。
ここには、ゲーテの言葉とは、微妙なずれがある。

「絶望できない者」と、「生きている必要はない」ことは、別の構造の中にあることなのだ。


正当であるはずの考え方は、おそらくこうだ。
「絶望し、しかしそれを乗り切ってきた者は、それによって自分の存在理由を確信し、生きるということを強く認識することができる。そのような者こそが、人間として生きることの意味を知るのだ」。

これを箴言風に置き換えるなら、こうすべきだろう。
「絶望した者は、生きなければならない者である」。


それならなぜゲーテは、「絶望できない者」という言い回しをしたのか。
絶望を知る彼自身を鼓舞するためだったのか。
あるいは、彼の敵が「絶望できそうにもない者」だったのか。

そんな言葉に、ゲーテの人間としての心情が感じ取れてしまうのだ。



Kertész -W.A.Mozart K.477 [479a]
"Maurerische Trauermusik - Masonic Funeral Music " - [Vinyl record]



イメージ 1




◆リンク
夕暮れ時の木々の梢 - ゲーテ三題
永劫に回帰するもの - ニーチェの立つ領域
村祭りでの偶然の邂逅 - 紅蓮の夜空
雨の中の路面 - 交錯する分岐