人と自然とのかかわり方というものがある。
たとえば水車の発明は、「自然のより大きな力を、人間のために利用できないか」という動機と発想によってなされた。
「水流にあるエネルギーを用いて水車を回す」ということは、「そこに川という自然がなければ、水車は回らない」ということでもある。
フランスのアルベール・カミュの「不条理思想」とは、こうだ。
人は、病めば死ななければならないのか?
それが神の条理なのか?条理なら従わなければならないのか?
だが、ぼくたちは宣言する。ぼくたちはそれを拒否する。
欧州に、「サタン」という概念がある。
「サタン」という言葉の本来の意味は、「対立する者」「敵対する者」である。
「世に害悪を撒き散らす者」「人を不幸にする者」という派生的な意味ではなく、あくまでも「神と対立する者」がその意味なのだ。
「神の条理であっても、それに従うつもりはない」。
ここに神との対立があるなら、カミュの思想にも「サタン」と名づけられるものがある。
しかし、たとえば、「病めば死ななければならないなら、ぼくたちはそれを拒否する」によって、医学は発達した。
「神の条理に対立する者、サタン」は、人の営為、人の発展のあるところに、いつでもあるのだ。
カミュはこう言っている。
希望とは、一般に信じられていることとは反対に、あきらめにも等しいものなのである。だが「生きること」とは、あきらめないことなのだ。
この言葉の意味はこうである。
希望と呼ばれる思いは、いまのこの現実に対するあきらめから出てくる。
いまのこの現実から離れようとするところから出てくる。
だが生きるということは、この現実に生きることを「けっしてあきらめない」こと、この現実を肯定し、いま、ここで生き抜くことなのだ。
彼は現実と幻想との境界を明らかにした。
「神の条理」への拒否を宣言した彼は、しかし、生きるという「この現実」を肯定しているのである。
彼はペストに宣戦布告し、生きるという「より巨大な条理」を肯定しているのだ。
「対立する者」たちは、「川は流れ、海に到る」、「木は茂り、そうして枯れて地に還っていく」という条理を拒否し、水車を作り出した。
だがそこには、「川は流れ、木は茂る」という条理の肯定、現実の肯定があるのであり、そのことによって、水車はこの世界に成り立つことができたのだ。

Toscanini
"JUPITER" W.A.Mozart Symphony No.41 K.551 (4th Mvt) - [Vinyl record]
◆リンク
抗う者が、種子を残す - 生きる本能
イリュミナシオン - 精霊 (アルチュール・ランボー) 【超訳】
イシュタル 光と闇の境界に立つ女神
透ける大地の果て - 根源という領域
雨の日の夜 老狩人との時間