私が住む企業城下町のあちこちには、昭和三十年頃に建てられた木造の住宅群が残されていた。
私の通勤経路にもそれがあった。ほとんど人も住んでいないそれらの家々。

だが、数年前から急速に取り壊しが始まり、区画の再整理が行われ、道路の位置も変わり、分譲地となって新しい家々が建ち並んだ。

ある夕暮れ時、私はそんな新しい街の、新しい道路を歩いていた。
山と海に挟まれた街だ。渓谷が海のすぐ近くにまで到達している場所もある。

たしか、このあたりには小さな渓谷があった。
川辺には夏でも涼しい木々が茂り、そこに年々堆積する木の葉。濡れた腐葉土が涼しげな森の香を放つ土手があった。

だがいまは、別ルートにコンクリートの水路が作られている。川はコントロールされ、管理される。
こうして人の領域は拡大していくのだ。


夕暮れ時、星はまだ見えない。
ふいに天空に、流れ星が走った。私が歩く同じ方向に、それは光跡を描いた。
夕暮れ時の天空に走る、直線というもの。
それはこれまでに見たこともない、青緑色の光跡だった。

流れ星は一瞬で消えてしまうものだ。だがそれは、しばらく消えることもなく、長く尾を引いていた。
ずいぶん長く残っているものだなと思ったとたんに、すっと消えた。

思いにかかわることのない、現象というもの。
青緑色の光跡など見たこともないと思っても、それに斟酌することもないかのように、青緑色に燃えながら飛翔し、消えていくもの。
消えると思っても消えず、なかなか消えないことを受け入れたとたんに消えていくもの。

人は地にいるしかないのかもしれないにもかかわらず、そんな天の空間は、まるで人の限界を見せ付けるかのように、「いつでも」、眼前に広がっている。


「高さ」というものは、人が数値的に定義した概念だ。
「山に登る」場合、そこには距離や高度など、比較的容易な「定義し、数値化できるもの」がある。

数値で定義されるものは、たとえば「五キロ歩いた、だから全体の半分まできた」などのように、その位置を確定できる。
数値で定義できるものは、概念的に構築された座標軸によって、その位置を与えられるのだ。

そこは、人があることができる領域、つまり、「人の領域」なのだ。


だが、距離や高度などで定義できる山々にある稜線というもの。
稜線とは「境界」なのであり、境界である稜線のかなたに、青緑に燃える星の光跡のある天空はある。

人が住む領域ではない、「人外の領域」が。

数値で定義できない空間がある。
それは、たとえば「五キロ上昇した」といっても、それが「全体の何パーセント」と数値化できない空間だ。
たとえ五億キロ上昇しても、「全体の何パーセント」と数値化できない空間だ。

「無限」「永遠なるもの」は、計算式に用いることができない。そこにあるのは、定義に必要な、「対にあるものが絶えてない」、絶対だからだ。

「天空という空間」は、「高さ」だけで成り立つことのない、「高さという概念をも、包括した領域」なのだ。
そこに座標軸は、無限に重なって存在する可能性を持つものとなる。


「いつでも」眼前に見えている天空。人外の領域。
そこは、詩人たちが、哲学者たちが、物理学者たちが感得し、いつでも手を差し伸べてきた領域だ。


その領域に飛翔したイカロスは、翼を焼かれ、落とされた。
この話は、しばしば教訓的に、「神を目指したものが罰を受けた」というような、「バベルの塔」に類似した解釈を目にすることが多い。

だが、「イカロスが翼を焼かれた」ことは、「人の傲慢」という「善悪」「正邪」という価値観からの帰結によるものなのだろうか?

「人外の領域に踏み込めば、翼は焼かれ、落ちるしかない」ということなのだ。


「翼を焼かれる領域がある」ことを知る者たちがいる。
詩人たち。哲学者たち。物理学者たち。彼ら旅人たちはいつでも知っていた。
自分が求める場所が、いかなる場所なのかを。

天空の青緑色の光跡。翼を焼かれる場所。
そこに手を差し伸べ、そこを知ろうと求め、そこに至ることを求め、「人の領域にあって、しかし同時にそこにあろうとしながら」、いつでも。



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◆リンク

シュレディンガーの、色を持たない猫
【超訳】 永遠 (アルチュール・ランボー そうして東洋)