「かくや姫」は天界で罪を犯し、地上に流された。
人間界で彼女は、ありえないものを人間たちに要求した。
もちろん、誰も彼女の要求を実現できなかった。

人間界の頂点にいる帝でさえも、「人間の不可能」を思い知らされるのである。
そうして、彼女は天界に戻る時期が来たことを知る。
罪が赦されたのである。

彼女は、人間の帝に不老不死の薬と手紙を渡し、そうして、天界の王までが含まれる迎えによって、天界に帰る。
人間の帝は、預かった不死の薬を、悲しみの中に、「ふし山(富士山)」の頂上で焼き払う。


これが、竹取物語の大まかなあらすじであるが、この物語は、さまざまな解釈が提起されてきた物語でもある。


彼女の罪に対する「罰」とは、「穢れた人間界に流されること」だった。
それなら、彼女の罪とはなんなのか?
なんらかの罪を犯したとしても、「彼女を天界のどこかに幽閉するだけの罰」でよかったはずなのだ。

罰として地上に流された彼女は、「穢れた人間界」で、貴公子たちに、「この世にありえないもの」を次々に要求する。
彼女を求める者たちに、である。
それらは、天界にはあるものなのだろう、しかし人間界には存在しない。

彼女はまるで、人間の限界を思い知らせるかのように、要求を出し続けた。
そうして、人間界の頂点に立つ帝にさえ、限界と不可能を思い知らせる。

ここで彼女は、自分が天界に帰る時期が来たことを知る。
「人間界の頂点にある者」に、限界を思い知らせた時期にである。

それなら、彼女が天界で犯した「罪」とは、なんだったのだろうか。


「その罰が、穢れた人間界への流刑である罪」
「人間に不可能を思い知らせた時に赦される罪」

「天界の王が迎えに来るほどの存在だった者が犯した罪」

 この三つに整合する「罪」とは、

「月」に住んでいた彼女の罪は、「人間界に文明を与えたことだ」と考える。

ギリシャ神話において、人間に火を与えたものが罰せられているように。
旧約聖書において、人間に知を与えたものが、蛇として悪魔のごとき扱いを受けているように。

だからこそ彼女は、「知を得て、しかし、穢れてしまった人間」に、その限界を示さなければならなかったのだ。
そうして、知を得た人間に、限界があることを明らかにすることによって、彼女の罪は赦されたのだ。
王が迎えに来たのなら、妃だったのかもしれない。



人は、自分たちの文明の出所を、そうして自分たちの存在理由を、問い続けてきた。
「なぜ自分たちは、このような存在として生まれ、この地上にあるのか」

そんな問いに、明快に回答を示すのが神話なのである。「神の名」があり、「神がいっさいを保証する」のである。
もちろん、ロジックの上にではなく、「信」の上にである。


「言葉を持ち、叡智を持ち、美や理想を求め」、だが限界を持ち、それゆえに「誤り、穢れているかのようにも見える存在」である、「人間」というもの。

なぜ、そのようであるのか。
天界の者、「かくや姫」が、人間に文明を与えるという罪を犯したからである。
かくや、あらむ。


だがそれなら、「竹取物語」とは、どのような位置付けの物語と言えるのだろうか?

「神話になれなかった、異端の神話」である。
なぜか?
帝を「人間」としたからである。

帝は「不死の薬」をもらった。彼は、それを飲めば神になっただろう。
しかし彼は拒絶し、不死の薬を「ふし山」、富士の山頂で焼き払った。

不死の薬は、「ふし山」という存在に委託され、富士は神域となる。

帝は、神となることを拒絶し、人間として限りある命の中に生きることを選び、ここに、「神である天皇」という正統の神話と、袖を頒つのである。

この物語は、「正統な神話に組み込まれることのなかった、異端の神話」なのだ。



◆「月」への関連リンク

天空の舞踏 月の暗い側