・・・元はと問えば分別の
あのいたいけな貝殻に一杯もなき蜆橋
短き物はわれわれが此の世の住居秋の日よ
-『天の網島』 名ごりの橋づくし-


副題に、「天の網島」の一節を持つこの物語は、「七つの橋を、一言も話すことなく渡り終えれば、望みがかなう」ことに挑む、四人の女性の物語である。

彼女たちはそれぞれに望みを持ち、七つの橋を渡ろうとする。
しかし、彼女たちの努力は、「肉体的な状況」、「人とのかかわり」、「社会的な決まり事」など、さまざまな事情によって破綻してしまう。

四人のうち三人までが、どうにもならない状況を迎えてしまい、きまりを破らざるをえず、「言葉を発してしまう」のだ。

三人の望みが絶たれる中、どのような望みを持っているのか誰にもわからない、謎めいた「みな」だけは、ただ一人、最後まで一言も口をきくこともなく、望みをかなえてしまう。


以上が大まかなストーリーなのだが、「物語に対する解」は、次のようなものになるだろう。

「橋」とは、異なる場所をつなぐものなのであり、この人生において、そんな場所を繰返し越えて行けば、人はかならず自らの望みをかなえることができるのか?

「できない」。

橋を渡る場には、いつでも、これをしてはならないという、「禁止としての法」がある。
ここでの「声を発してはならない」という禁止は、「橋づくし」を成り立たせるために、かならずクリアしなければならないことなのだ。

だが、人はこの社会にある限り、さまざまな「事情」によって、しばしばその約束を破綻させられることになる。

 

 

この社会があるから、人は望みを持ち、しかし、この社会があるから、望みは破綻させられるのだ。
そんな物語の解に重なり、さらにこの作品は重要な構造の上に成り立っている。
副題にでてくる「天の網島」である。


「天の網島」において、恋人同士は「橋づくし」を完結し、望みをかなえる。
彼らの望みとは永遠に一緒になることだった。しかしそれは「心中」によってのみ、かなうものだった。

「絶対である死」によって、「永遠に一緒になる」という望みは成就するのだ。


三島の「橋づくし」において、禁止されていることは、「約束=法」として絶対視され、つまり、この物語は「人が作り出した絶対」を基準にして進んで行く。

だが、副題に出てくる「天の網島」は、「死という絶対」にかかわっている。
もちろん、「死」と呼ばれるものは、「法」とは異なり、人が作り出したものではない。
「死」とは、「絶対であるもの」なのであり、「法」とは、「絶対でなければならないもの」なのだ。

それなら「橋づくし」には、領域が真逆にある「絶対」がある。つまり、「死=人外の領域」と、「法=人の領域」である。


そんな構造を持つことによって、この物語は、なにを示すのか?

「死」も「法」も、個人的なものを圧倒的に凌駕して否定する。
個人的なものである「個性」「価値観」「アイデンティティ」などは、「死」と「法」の前にあっては、否定されるだけのものなのだ。

「みな」は、「誰にもわからない存在」なのであり、つまり、「生きていながら、ある意味、死んでいると言える存在」なのである。
謎めいた彼女は、他の三人のように、個性、価値観、アイデンティティという「個人的なものを示さない」からだ。

そこに、「みな」の望みの成就の理由はある。つまり、彼女は「死」と「法」の側にあるからだ。

そうして、それと同じ意味において、「天の網島」で、橋づくしを完結させた恋人同士もまた、「死=心中」と「法=橋づくしの完結」のいずれにも適合し、その望みを成就する。
つまり、永遠に結ばれるのだ。


「死」という絶対が、「法」と齟齬なく重なることによって、絶対は、人にとって完結する。

そこにあるのは、「自分という、個人的なもの」の否定なのであり、個人と望みとのかかわりは、否定の場にこそあるとするのが、「橋づくし」なのである。

「橋づくし」は、三島の世界に特有の構造の上に成り立っている。
それは、彼のどの作品にも潜在する、「個を否定する絶対」「絶対の領域にあろうとする個」と関連するものだ。


「憂国」にも連なるテーマは、この、ややコミカルな短編小説の「構造そのもの」にもまた潜在しているのだ。

 

 

 

 

 

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◆リンク
始皇帝 三島由紀夫との交錯
雨の中の路面 - 交錯する分岐