永遠 L'ÉTERNITÉ  
アルチュール・ランボー 
Jean Nicolas Arthur Rimbaud


ぼくはふたたび見つけ出した。
なにを?
永遠を。それは、海に融合していく太陽だ。


白く砕ける波濤とともにある海。
いま、ぼくが生きるこの世界。ぼくが生き、ぼくが死ぬ、人の領域。
その巨大なうねりと轟音と。いま、海からの風吹く中に、ぼくはある。

かなた、天空にある太陽。
人には触れることもできず、そこに立つこともできない人外の領域。
地上のいっさいを知る光の灼熱。いま、その光の中に、ぼくはある。


かなた、人の領域と人外の領域とは融合していく。
到ることのできない水平線のかなたに融合していく。
永遠なる音楽は、止まることなく、そこにひびく。そこにひびき続ける。


ぼくはふたたび見つけ出した。
なにを?
永遠を。
それは、海に融合していく太陽だ。

そう、ぼくは「ふたたび」と、明らかに言おう。
それは、人が最初から知っていたものなのだ。




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ランボーは、欧州的なものとの訣別を、「不可能 (地獄の季節)」で次のような意味のことを述べる。

ぼくの果てもない苦痛の出所は、どこにあるのか。
ぼくたちがいるのが「欧州」だということを、早くから悟らなかったところにある。

つまり、「欧州的なものという価値観だけを、疑いもなく頭から信じ込んでいること」を、早くから悟らなかったところにある。

殉教者の勝利。芸術の光輝。発明者の驕慢。略奪者の情熱。それら欧州的なもの。
ぼくは、それらのいっさいを放擲した。

ぼくはふたたび東洋に還った。永遠の、当初の叡智に。
欧州から見れば「怠け者の夢」でしかないその領域に、ぼくは踏み込んだ。

なにもかもが、原始の東洋からは遠い。
かつてぼくが見た「純潔なるエデン」にとって、あの古代東洋の思想は、なんの足しにもなりはしなかった。

エデンは知恵と融合し、変容していった。
だがどこに向かったのか。
永遠なるものへではない、この「欧州的なもの」へと向かったのだ。


そんな「原始の東洋」において、たとえば「老子」は、おおまかには次のようなことを述べている。

融合の場にある形なきもの。
それは名を持たず、だが、融合の結果が「新たな意味」を成り立たせれば、それは「名」を持つことができる。

「意味」の成り立ちとは、いつでもそんな「場」にある。
かかわり、融合することによって「意味」は成り立ち、それは名付けることができるものとなる。
人はいつでも、そんな「永遠なる場」にある。



そこにある「場」こそが、ランボーがふたたび見つけ出した「人の領域と、人外の領域の融合する、永遠」という場なのだ。
そうして、融合の場において、個人的なことである苦痛も、夏の日の絶望も昇華され、消滅していくのだ。



ごく若いころのランボーが夢見た、純潔なるエデン。それは地上の天国を指すのではない。純粋なるイデーの世界だ。

「アダムとイブ」という純一なる存在の象徴は、「蛇があたえた知恵の実」という別の概念とかかわった。
そうして、異なる概念の融合により、「別のもの」になった。
そこに、「あらたな意味」は成り立った。

そのことこそが、文明の拡大の基点にあるのであり、「純潔なるエデン」は失われ、「別の名で呼ばれるべきもの」が出現するのだ。

「別の名で呼ばれるべきもの」、つまり「欧州文明」は、そこに始動する。
そうしてそこから、さらにくり返される多様な融合が、欧州という概念的な有機体の姿を決めていく。

場は無限であり、しかしそこで、「なにと融合していくか」。
分岐点での選択のいっさいこそが「歴史」だ。そこでの選択の果てに、欧州の姿は確定していく。
欧州文明もまた、「エデンから派生したもの」なのだ。

通り過ぎる分岐の果てに成り立った、欧州的な価値観。
そこにランボーは立ち、そのことを知り、「欧州文明以前」の血を覚醒させ、そうして彼は欧州的なものと訣別したのだ。



彼は、先に引用した「不可能 (地獄の季節)」の中で、次の言葉を用いる。

東洋の終焉。

純潔なるエデンにとって、「なんの足しにもならなかった」、東洋的なもの。

「融合の果てに、新たなものが成り立つ」にしても、それだけでは、選択肢の果てにある方向は決まらない。
融合すべきものとして、なにを選択するのか、なのだ。
欧州文明もまた、選択肢の果てにある、ひとつの形態なのだ。


「決定できない、東洋的なもの」の限界と終焉を知った彼は、人の領域の境界に立ち、そこでなにを見たのだろうか。

それこそが、「見失われた永遠」だった。
人の領域が、人外の領域と融合する場に、「ふたたび」、彼はそれを見いだしたのだ。



欧州的なものへの、「ランボーという、覚醒した蛮族」からの訣別状。
彼はそうして、南へと、砂漠へと、旧約聖書の舞台であった地へと向かった。

ランボーが向った砂漠は、天空の星宿の下にあった。
そこは、欧州的な価値観が存在する以前の、永遠があるはずの領域だった。





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ギリシャ神話の、無彩色の目を持つ「知の女神アテナ」は、その楯にメドゥーサの首をはめ込んでいる。
「見る者を、恐怖のあまり、石に変える首」をである。

「知」を直視すれば、人は恐怖のあまり石になってしまう。
だが、アルチュール・ランボーは、「その楯を直視することを求める者のうちの一人」だったのだ。




◆リンク
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